洛陽の花 <短編集>

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 楽になろう。
 流しに浮かぶ、さびの浮かぶ包丁に手が伸びる。
 泥水の中のように足が重い。
 私はまだ酔っているのだろうか。
 酔っていて欲しい。
 妻は、出て行ったときと同じように床に転がっていた。
 自分がつけた傷痕が痛々しい。
 ののしりさえ返してこないのが寂しい。
 永遠とも思える明日が苦しい。
 楽になろう。
 私も後から逝く。
 振り下ろそうと力を込めた。
 振り下ろせば楽になる。
 妻の意識など、とうに消えている。
 この女は、ただの荷物なのだ。
 私を縛るだけの、ぬけがらなのだ。
 邪な勇気を振り絞り、震える指で柄を握る。
 これ以上、私の妻の姿を汚さないでくれ。

 どれほど覚悟を決めても、刃を振り下ろせなかった。
 力尽きて座り込み、頼りなく自分を嘲る。
 私には、勇気がない。
 妻を救うだけの勇気がない。
 包丁を元の場所に戻すために立ち上がった。
 そして、気付いた。
 ぬけがらのはずの両目からこぼれた雫のあと。
 皺の隙間を流れ落ちた涙のあとを。
 包丁を取り落とし、妻にすがった。
「すまない」
 肩を抱えて嗚咽した。
「すまない」
 謝る以外のことが、私には出来なかった。




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