「ファウスト〜殺戮の堕天使〜」

七章 悪魔の夜

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「その女は医師でありながら僕に患者を売ったんだ。助けを求めて縋る人間に、彼女は毒をもったのさ! 何という残虐。何という大悪党! そう、まさに悪魔のような毒婦、まさに善人の皮をかぶった悪魔だ」

 生ける屍は、何の反応も示さない。

「てめぇ、それ以上喋るとただじゃおかねえぞ」

「義憤のつもりかい? 使いどころを間違えるなよ。彼女は私欲のために他を犠牲にすることを選んだ。その行為がこの結果なら、これは妥当な報いではないかね」

「仕組んだのはてめぇだろうが」

 男のゆくてをさえぎるように、虚ろな躯が立ちふさがる。

「……シュミさん」

 抜け殻のように立つその姿に、生前の面影などどこにもない。

「どいてくれ」

「おやおや、気でも違えたかな。死人に言葉など通じないよ」

「そこを退いてくれ。そうしねえと、あんたの仇討ちすらできねえ」

 その首に、するりと冷たい手が巻き付く。

「……可哀想によ」

 男は首にかかった腕を、強く握りしめる。

「未練だろ。こんなところで息絶えて。心配だろうな。ここにゃあんたしかできないことが、まだまだ山ほど残ってんだからよ」

 じわじわと締め付けがきびしくなる。男は表情すら変えず、言葉を続ける。

「なんでこんな目にあったか、聞くような野暮はしねえ。あんたの決めた道だ。正解だったか不正解だったかは、あんたにしか決められねえ。そうだろう?」

 男が笑う。憂いを含んだ、儚い笑みだ。

「あんたはいい女だったよ。少なくとも俺にとっちゃ、あんたの笑顔は最高だった。こんなところで失うのは勿体ねえケド、それがこの世の掟だ。勘弁してくれ」

 死人の力が抜け、だらりと腕が下に落ちた。倒れてくる身体を抱き留め、地面に横たえる。虚ろな眼差しは閉じられ、永遠の安らぎを彼女は手に入れた。幾筋もの雨雫が、その瞼からとめどなく落ちてゆく。

「へぇ」

LOKI』が感心したように声を上げる。

「そんなこともできるんだ」

 男の表情が変わる。総毛立つほどに冷徹に、冷たい炎が両目の奥から噴きだす。

「くく、そんな眼で見ないでくれたまえ。痺れるじゃないか」

 軽口をたたく主人を庇うように、しもべが間に入った。

 男が歩みを止める。

「どけ、ニーナ。おまえが守るべき主人はもう死んだ」

 びくっ、と少女が震えた。その瞳に、わずかな生気が戻る。

「サラ」

 冷たい呼びかけに、その表情も消える。

「その男を殺せ。奴が君の姉を殺したんだ」

「――っ! てめぇ!」

 少女の瞳に、暗い炎が宿る。

「あはははははははははははは!」

 真っ向から向かってくる影を、男は正面から受け止めた。ごろごろと転がり、止まった場所で少女が馬乗りになる。

 鋭い爪が走った。

 紙一重で避けた男の頬に、赤い筋ができる。

「目え覚ませニーナ! あんなくそったれの、言うことなんざ聞くんじゃねえ!」

「無駄だよ。彼女は僕の言うことしか聞かない」

「ニーナてめぇ――いい加減にしねえとニンニク食わすぞ!」

 少女の動きがはたと止まる。

 その隙を逃さず、男は見えない位置から手刀を落とした。わずかにうめいて、意識を失った少女が腕の中に倒れる。

「――よし、いい子だ」

「くく、レディの扱いに慣れているじゃないか」

 無言の怒気を発し、男がゆらりと立ち上がり、例の構えを取る。

「地獄への道連れ、頼むわ」

「喜んでご案内しよう」

 静かに目を閉じ、息を整え、おもむろに叫ぶ。

「――陽龍! 俺の(オーラ)、根こそぎ食らえ!」

 金色の尾が引いた。

「おおおおおおおぉぉぉ!」

 繰り出された拳は、『LOKI』をとらえきれず空をきる。代わりにもらったのは、鉄杭のごとくめり込む悪魔の鈎爪だ。

「っ!――痛たくねぇ!」

 歯を食いしばって次を繰り出す。

 空振り。

「っ――痛たかねぇ!」

 腹に食い込んだ爪をはぎ取るが、さらに伸びた爪が今度は左足の傷口へと深く突き刺さる。

「――痛たか、ねぇ!」

 気力に衰えはない。

 『LOKI』を真っ直ぐにらみつけ、顔面を狙う。

「くく」

ゆうゆうとかわされ、『LOKI』は己の爪を抜きさる。追うようにして、赤い飛沫がパッとはじけた。

「ぐぅッ」

 男がひざをつく。

「どうした? 痛くないのだろう?」

――ぐふうぅぅぅ。

 獣のように息を吐く男に、『LOKI』は伸ばしていた爪を引っ込めて薄く嗤った。

「しぶとさというのは残酷だ。楽になるまでの苦しみが、その分引き延ばされてしまうのだから」

 なぶり殺し。

 その一言がこれほど似合う光景もない。

「その傷では、先ほどの技も使えないだろう? 満足に歩くことすらできまい? 終わりだね」

「……もう、十分だろ」

「十分?」鋭く聞きとがめた『LOKI』が嘲笑する。

「今更命乞いか? 愚にもつかんよ」

 男の身体がふっ、と力をなくした。

 前屈みに倒れかけ、無傷の右足に、その全体重をのせる。

「片足なんざァ――くれてやる」

 言葉だけがそこに残り、『LOKI』のふところで血にまみれた顔が哂う。

 ごぼっ。

 その口から、新たな血の塊が噴きだす。

「二度も同じ手が、通じるとでも?」

 左胸を貫かれ、男の顔からみるみる血の気が失せていく。

「さようなら、ハンス君。愉しかったけれど、君はここで退場だ」

 その言葉に、笑みを張り付かせたままで答える。

「十分だ、つったろ」

 男の片腕が大きく波打ち、信じられないほど巨大に膨れ上がった。

「――――は」

 豪腕の左ストレート。

 避ける暇などありもせず、枯れ葉のように『LOKI』が跳ぶ。吸い込まれるように、こちらに向かって一直線に飛んでくる。

――いい位置だ。

 バチバチバチバチバチッ!

 ファウストの目の前で、『LOKI』が自ら創り出した結界に張り付き、この世ならぬ絶叫を上げた。

 囲んでいた光の柱が消える。

 わずかな帯電を残し、襤褸くずのように落ちてきた『LOKI』が地面に手をついた。

「おのれ――死に損ないが――」

「貴様もな」

 その無防備な背中に、ファウストは拾った長剣を突き刺した。柄に手のひらをあて、一気に押し通す。

「…………」

妙な方向にねじれた首が、ぐるん、と回転してこちらを見る。

「痛いじゃないか」

 悪趣味なマリオネットだ。

「こんなナマクラ、僕に通じるとでも」

「思わんよ」

 握りしめた剣の柄が、急速に氷点下まで温度を下げていく。食い込んだ刃からまるで浸食するように、傷口から広がってゆく。

「これは――」

 無意識の狭間から朗々とした声をつむぎだす。遙か古代の言語を母胎とする、すでに忘れられたはずの聖歌。

「そうか、君――」

 急速に冷凍され、氷の柱に覆われてゆきながら、『LOKI』が低い笑い声をあげた。

「食べたね」

 詠唱を続けるファウストに、『LOKI』は告げる。

「馬鹿なことを。君たちにとってそれは毒だ。楽に消化できるようなものではない」

「ぬかせ。貴様を倒せるならば毒だろうがなんだろうが喰らってやる。たとえこの身が朽ちようとな」

 氷の皮膜は完全に『LOKI』の全身を覆い、ひんやりとした冷気を辺りに放っている。

 腹の中が熱い。それは傷のためなのか、それとも毒のせいなのか。

 呪文が完成する。

 氷の皮膜から結晶が突き出した。連鎖するように、それらは次々と生まれいでて『LOKI』を氷壁の中へと完全に閉じこめる。

「……気分はどうだ?」

 答えられるはずもない。氷の壁に覆われたあの中は、完全に外界から遮断されている。

 あとは”火球”の魔術でも打ち込めば、木っ端微塵に――

 げふっ。

 たまらず口を手で塞ぐ。指のすき間から、どろりとした液体がこぼれだした。

 腹の底が溶けだしている。世界がぐるりと逆転した。踏みしめていた地面から足を踏み外し、亀裂の中へと呑み込まれてゆく。真っ逆さまに落ちてゆく感覚――

 何者かの叫び声に我に返ると、何もかもが元の状態のまま、自分だけが座り込んで頭を抱えている。

「何が」

 自分の手をみる。不思議な形だ。あるはずの指が、スパッと切り取られて根本からぼとぼとと深紅の血潮を迸らせている。

「…………」

 発狂しそうだ。

「忠告を聞かないからそうなる」

 鏡の中のもう一人の自分が語る。

「拾いものを食べればお腹を壊す。子供の理屈すら君には存在しないのか」

 反論しようにも、口の開け方がわからない。

――どうしてしまったのだ。

 五感のすべてが狂っている。

「残念だ。君はとても優秀な素材だったのに。これではそのうち狂人と化して死ぬだけだ。がっかりだよ。こんな最後は」

 上から下から右から左から前から後ろから内から外から無限に繰り返される声の。誰かが嗤っている。世界中に嗤われている。罵られている。欺かれている。操られている。狙われている。責められている。

――ギリ。

 じわりと血の味が広がり、唇の端から一本の筋がこぼれた。

 全身を襲う悪寒と押し寄せてくる感情の波。それを理性で押さえつける。

 『LOKI』はまだ、氷の檻に閉じこめられたままだ。

 足下に転がってきた銃を拾う。

 弾倉から薬莢を取り出し、通常弾を装填する。この有り様では、魔術には期待できない。

(……トドメを)

「その指でか?」

 手を見る。そうだ。失くなってしまっていたではないか。これでは引き金がひけない。

(幻覚だ!)

 そうだ。ちゃんとあるではないか。合計十二本の指が――

(…………)

 引き金が引けるならそれでいい。

 照準を合わせる。ブレて思い通りにいかない。ともすれば、自分のこめかみに銃口を当ててしまいそうな誘惑に駆られる。

(……引き金を、引くんだ)

 不意に恐怖に襲われる。果たして、あの巨大な氷壁に、こんなちんけな玩具一つで傷がつけられるだろうか?

(やるんだ)

 たとえ一発では無理でも、何十発でも撃ちこむのだ。それで駄目なら何百発だ。ある限りの弾を続けて撃ちこめ。

――悪魔を、この地上に解き放ってはならない。

 それが二年前の約束だ。

 引き金を引いたその瞬間、巨大な閃光が視界を覆った。轟音と共に、一筋の雷光が夜を切り裂き、氷の牢獄に喰らいつく。

「素晴らしい」

 氷壁の中の『LOKI』の姿が二つに割れる。それが無数に分裂した。ひび割れが全体を覆い尽くし、大小の氷の欠片が飛び散る。

「それでこそ僕の親友(ライヴァル)だ」

 心地の良い浮遊感の中で、ファウストの意識はふつと途切れた。

 




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