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「彼女たちは哀れな躯たちだ。かつてこの丘の上で火に巻かれ、君を呪いながら死んでいった者たち。何か言うことはないかな?」
「ない」
にべもなく、ファウストは言った。
「おぉ……可哀想に。白き柔肌を持つ乙女たちを、醜く変え果てた犯人は、己の罪を認めず無罪を主張する。これだけの証人がいるというのに、それは潔くないと思うね」
冗談にしては、タチが悪すぎる。右も左も前も後ろも、気色の悪い死に損ないどもに囲まれている。
逃げ場がない。
「君には勿論情状酌量の余地がある。そこで一つ提案だ。彼女たちのたっての願いを聞いてやってはくれまいか?」
瞳孔のない落ちくぼんだ眼窩が一斉にこちらを見た。
「君を食べたいそうだ」
肝を震えあがらせるような声をあげ、腐乱死体の群れが襲いかかってくる。鼻の曲がるような悪臭に耐え、目の前の一体に拳を振り下ろす。
ぐじゅり、と気色の悪い感触が指先から溢れた。足で蹴りつけると、何匹かを巻き込んで地面に倒れる。
(なるほど。動きはトロいな)
手についた汚汁を振り払い、ファウストは冷静に判断した。生きていた頃と勝手が違うのか、不器用なまでに動きが緩慢だ。気分さえ無視すれば、たいした敵ではない。
しかし一体一体は楽にたおせるものの、限度がある。いくら潰してもキリがない。
「いやぁっ!」
女の悲鳴が聞こえた。見ると、”脳なし”どもに組み付かれ、引きずり倒されている。
「ちぃっ!」
駆けつけようと踏み出すと、”脳なし”どものすき間から、小柄な影が滑り出た。
脇腹に激痛が走る。視線を落とすと、鋭い爪を食い込ませた少女の無表情な顔があった。
(この、餓鬼――)
肘を曲げ、力一杯真下に叩きつける。小さな頭は渾身の一撃を受け、よろけて肉にくい込ませた力が弱まった。腕を振り、小さな体をはじき飛ばす。
かはっ。
(くそっ――)
押さえた傷口から、赤い血が流れ出す。
オオオオオォオオォオオ――
それを見て、亡者どものやる気が増したようだ。
(冗談ではない)
このままだと、天候と亡者ども相手に体力が奪われ、力尽きるのも時間の問題だ。
「諦めるかい?」
見上げると、『LOKI』がいた。何もない宙からこちらを見下し、成り行きを愉快そうに眺めている。
「冗談は嫌いでな」
「だろうね」
『LOKI』が卑しい嗤いを浮かべ、昏い瞳の群が再び襲いかかってくる。
さすがに死を覚悟した刹那、
黄金色の羽根が、視界をかすめた。
朱い閃光が闇夜を切り裂く。
辺りを包んでいた暗闇が残らず追い払われ、出てきたのは真っ赤に色づいた満月だ。しかし、血のような色の満月など、この世に存在するものだろうか。
そして何より、視界の先にある者に目を奪われる。
「悪魔よ――汝に粛正を」
真っ直ぐな白刃が、『LOKI』の胸を刺し貫いていた。
周囲の亡者どもが騒ぎ出した。降り注いでいた雨は輝く羽毛に代わり、舞い散る羽根に触れた”脳なし”どもは炎に包まれ、悲しい絶叫を残して元の土のなかへ戻っていく。
剣が引き抜かれると、『LOKI』の体はゆっくりと傾き、落下した。
ドサリと地面へ激突する。呆気にとられていたファウストは、その音でハッと我に返った。
(幻では、なかったのか)
ぎりり、と歯ぎしりする。間違いなく、その姿は昨夜、自分が目撃した者と寸分違わぬ、神の化身。
天使。
それが今、目の前にいる。
両翼の翼を羽ばたいて、天使は軽やかに着地した。切れ長の瞳が、ひたとファウストをとらえる。
「何の、つもりだ」
問いに答えはない。
ファウストは身構え、そしてハッ、と気づいた。素早く周りに目を走らせるものの、どこにも見あたらない。彼の唯一の武器は、先ほどのどさくさでどこかへはじき飛ばされたままだ。
歯がみしながら、近づいてくる剣の行く末を凝視する。
押し黙るファウストの横を、白翼の乙女は何事もなくすり抜けた。そのまま背後へと消える。
ほっとしたと同時に、彼は不愉快な思いに駆られた。まるで自分など眼中にないかのようだ。
「哀れな羊よ。汝に神の裁きを」
振り向いたファウストは、思わず我が目を疑った。
意識をなくして倒れた女に、今にも刃が降りおろされんとしている!
――どういうつもりだ!?
彼が声を張り上げるよりも早く、雨の雫を蹴散らして小柄な影が脇をすり抜ける。
悲鳴が上がる。
突き立てられるはずの刃は目標を違え、小さな少女の腕をえぐる。「ばしゃっ」と水たまりの中へ倒れこんだ影は、その色に真紅の彩りを添える。
「……何故、邪魔をするのです」
穢れた剣を振りはらい、天使は冷たい声で少女に尋ねる。
「その罪人は、貴方を悪魔に売ったのですよ。庇いだてするなら貴女にも、同じ罰を与えねばなりません」
少女は立ちあがる。その表情は相変わらずの無表情――
――いや。
降りそそぐ雨のせいで、事実はわからない。しかし、彼はその考えが真実だと信じた。弱い人間であるがゆえに、自己犠牲の精神は何にもまして気高く映る。
何とかしなければならない。
「よいでしょう。貴女もまた、主の御意志に逆らう者。たった一度の贖罪の機会を与えましょう」
考えている時間はなかった。
意識を空にし、呪文をつむぎだす。
周りの雨雫が手の中へ集まり、ゴムまりのような形をとる。弾力性に富んだ水の球は、内部でゆるく回転しながら手のひらにとどまった。
天使が気づく。未完成だが、仕方がない。
「”水蛇”!」
彼が腕を振ると、丸い水球が細く尾を引き、宙に幾重もスロープを描いた。水の軌跡が、まるで長い蛇のように宙を泳ぐ。
「ぬんッ」気合いの声とともにふるわれた腕につられ、半ば物質化した水の鞭が天使を襲う。
白い翼が大きく膨れあがる。柔らかな風を起こし、軽やかに地面から舞い上がった身体は、鞭が届く直前に上空へと逃れる。
「ちぃッ!」水の鞭を大きくしならせる。降りそそぐ雨粒を吸収し、どこまでも”水蛇”は獲物をつけねらう。
天使は剣を振るい、”水蛇”を両断した。
(とらえた!)
もともとあれに形などない。かりそめに水の属性を連結させ、長い鞭のように見せているだけだ。
両断された箇所から新たに枝が伸び、螺旋を描いて交差しつつ、獲物をうちに閉じこめる。
「”存分に喰らうがいい!”」
先端部が大きく膨らみ、くわっ! と生き物のように口腔をひらいた。”水蛇”は頭から獲物を丸飲みにしようと襲いかかる。
しかし、その顎は獲物をとらえることなく、水しぶきを散らせて四散する。
――失敗!?
ズン、と鉛のような疲労がのしかかる。魔術は諸刃の剣だ。強力無比な一撃の代わりに、それに見合うだけの体力を奪い取る。
天使が急降下してきた。だが彼に、避けるだけの余力はない。
翼が広がり、喉元に切っ先が突きつけられる。
「呪われた羊よ。汝が罪を知りなさい」
神々しいまでに整った顔が、自分に対して警告を告げる。
ファウストは唇の端を釣り上げた。
「よくやったぜ、おっさん」
若い男の声に、ファウストは答える。
「――昏倒させた、はずだがな」
「あんなへなちょこパンチがきくかってんだヴォケ」
癇に障る言葉を返し、置き去りにしたはずの男が、傷ついた少女を抱えて皮肉げに笑う。
「安心しろよ。デートの邪魔はしねえ」
「もともと、こいつの狙いはそいつらだ。とばっちりをくっているのは、俺のほうだぞ」
チクリ、と喉元に痛みが走る。
「……さっさとしろ」
「悪魔に組みする愚か者ども。それほどまで罪を重ねたいのですか」
次第に刃が食い込んでくる。
「早くしろ!」
「っせぇな!」
言うなり、腰の革包みから鋼色の鉄塊を取り出した。二発の弾丸が銃口から発射され、正確に標的をとらえる。
剣が引き戻される。天使は再び上空へと舞い上がり、降り続く雨の中からこちらを見下した。
喉元を拭い、手のひらを見る。じわりと赤い模様が広がった。
「……どうなってんだ? 『LOKI』ってヤロウを相手にしてたんじゃねえのか?」
頭上に注意を払いつつ、女二人を抱えて男が隣に並ぶ。
「『LOKI』は死んだ。あれが今の敵だ」
「なんだ。もう殺っちまったのか? えらくあっけねえな」
「その辺に死体が転がっているだろう。胸に風穴の空いた奴の死体が」
もう一人の自分が――
「あぁ? ンなもん、どこにあんだよ」
「――なに?」
ファウストは慌てて周りを見渡した。
確かに。
地上に墜ちた『LOKI』の死体がない。
「馬鹿な! 確かにこの目で見たのだ! 奴の胸に剣が突き刺さり、その後――」
その後。
その後、どうなったのだ?
「おい、なんだよ。どうしたんだ?」
――甘かった。剣の一突きで奴が死ぬなら苦労はしない。あれは不死身だ。ゆえに封印したのだ。
キッと、ファウストは男をにらんだ。
「そいつを捨てろ! いますぐだ!」
「はぁ? 何いってんだてめぇ、わけわかんねえぞ」
「彼の判断は正しいなァ」
男の腕の中で、低い声があがった。
「姿形に囚われていては、とうてい真実など見抜けはせんよ」
「うわっ!」
青い火花が散って、男は少女を手放した。
「……のり移ったか」
「理解が早いね。さすが僕が見込んだだけはある」
少女が微笑む。さっきの無表情とは打って変わって、まるで花のようだ。たっぷり塗り込んだ毒を蜜に隠した、まがまがしい食虫植物。
「おい、ニーナ、どうしたってんだ」
「黙っていろ。ナリは貧弱だが、中身は化け物だぞ」
少女はふわりと浮かび上がり、上空にある天使を見据えた。その顔に邪悪な笑みが浮かぶ。
「よくも邪魔をしたね。できそこない」
「――『不死者』」
剣を掲げ、彼女は主の仇をにらみつける。
「忌むべき不死者に死を!」
加速してきた一撃を、少女の姿をとった悪魔は片手で難なく受け止める。美しい顔に、初めて感情と呼べる表情が浮かんだ。
驚愕。
「いいかい? これはセンパイからの忠告だ。よく聞くといい」
刃をつかんだその手から、なま暖かい雫がポトリと垂れ落ちた。
「自分が強者だなどとうぬぼれるな」
耳を覆いたくなるような絶叫が響いた。空から巨大な影が落下してくる。激突する寸前、天使はその一枚だけしかない翼をクッション代わりに使って、激突から身を守る。
その上に、『LOKI』が落下した。
悲鳴が続き、奴はそれを足で塞ぐ。少女は可憐な笑みを浮かべ、淑女のように恭しく頭を垂れた。
「パーティーを続けましょう」
最悪だ、とファウストは思った。