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「浮気者のハンスさま。今宵はどこで道草をくっていたのかしら?」
『LOKI』はクスクスと、見かけどおりの姿形で笑った。
「せっかく晩餐にご招待差し上げたのに、待ちぼうけをくわせるなんて罪なひとね」
「……わかるように、説明しちゃくれねえか」
ハンスと呼ばれた男は、少女から目を離さず尋ねてくる。
「あれは、ニーナなのか?」
「元の人の名などしらん。その女は、サラとか呼んでいたな」
ファウストは、男の腕の中でいまだ目を覚まさない女を一瞥する。
「知り合いか」
「……ああ。シュミさんの、このひとのクソ生意気な助手だった。今は、見る影もねえが」
「だったら情けをかけるな。あれはもはや人の形をした化け物だ」
「バケモノとはずいぶんな言い草ね。このわたしを裏切って捨てたくせに」
不意に男の視線が移動した。
「……あれを語っているのは『LOKI』だ。人を分別のつかぬ変態どもと一緒にするな」
「何もいってねえだろ」
咳払いを一つして、ファウストは『LOKI』を睨む。
「まぁ恐い。今にも襲われそう」
「何のつもりだ? 贄をのっとってしまっては、復活するための儀式すらおこなえんだろう」
「くすくす、なんてお馬鹿さん」
ピク、とファウストの額がひきつる。
「貴男の陳腐な脳みそではその程度ね。偏屈で狭量なうぬぼれやさんは、自分がどんなに馬鹿な質問をしているか理解していないみたい」
年端もいかぬ少女の言葉に、ファウストの顔がみるみる険しくなる。
「落ち着けよ、おっさん」
「ほんと、貴男はすてきね。ちゃんとわたしの思いどおりに来てくれた。儀式という手綱を頼りに、貴男はついに辿りついたの」
『LOKI』の目が妖しく光る。
「わたしの贄となるために」
足元から光が噴きあがった。
複数の光の柱が次々に天へと昇り、地面の下から複雑な模様が浮かび上がってくる。
「これは――!」
「おあいにく様。メインディッシュははじめから決まってたの」
強力な魔力の磁場が発生している。周りを囲む十二本の柱は、結界を施すための楔だ。外から中へではなく、中から外へ出さないための結界。元の世界より隔離された別次元の牢獄だ。
「くっ――」
(謀られた!)
「気分はどぅお? 今の貴男がかつてのわたし。口惜しいでしょう? 悔しいでしょう? けれど、どうにもならないの」
高笑いが響きわたる。
ファウストは忌々しい光の柱に手を伸ばした。
「そいつに触れんな! とたんに麻痺しちまうぞ」
緊迫した男の声に、直前で手をとめる。
「ここから出せ!」
「いやぁよ。貴男は最後のごちそう。じっくり味わって食べたいもの。生きのいい獲物が、しだいに絶望に蝕まれていく快感。うふっ、ぞくぞくしちゃう」
「てめぇ!」
ハンスが地を駆け距離を詰めると、『LOKI』は嘲るようにさらに遠くへ跳んだ。
「ニーナの身体、返しやがれ!」
「くすくす。どうやって? 確かにあの子はまだここにいる。わたしの裡で、膝を抱えて眠ってる」
ハンスは抱えていた女を降ろし、地面に横たわらせた。
「ぶん殴りゃ、目も覚めんだろ」
「いい考えね。この子が傷モノになっちゃうかも」
気配が変わる。
膨れ上がっていた怒気が急速にしぼんでいき、湖のような凪が訪れる。不思議そうに、『LOKI』は小首を傾げる。明らかに様子が違った。
深い呼吸。ゆっくりと体内におさめるように繰り返されるリズム。踏みしめた足はしっかりと大地に根ざし、突きだした腕は、まるで巨大な槌のように大きく膨れ上がる。
「行くぜ」
男が声をかけ、大地を蹴る。
瞬間、『LOKI』の目の前に現れた。
「――導引!」
驚嘆の表情を浮かべ、下がろうとした『LOKI』の腕を男の二の腕がからめ取る。
「守一周天!」
離れかけた身体を引き寄せ、
「白虎専心!」
差し出された手が、とん、と小さな胸に触れた。
「八卦・震掌!」
一拍の間をおき、爆発的な力が少女の身体を突き抜けた。軽いからだは宙に浮き、吹き飛びかけて、引き戻される。
ハンスが腕をはなすと、少女はよろめいて地面にくずおれた。表情から余裕の笑みは消え、呼吸は浅く、苦しそうに胸を押さえる。
「――何分か、呼吸は困難なはずだ。楽になりたきゃ、ニーナの身体から消えろ」
至極、冷酷な声でハンスは告げた。
「てめぇを許すわけにゃいかねえが、その子に罪はねえ。さっさと失せろや下衆野郎」
地面に手を突いた『LOKI』は、ずぶぬれの髪の下に表情を隠し、えづいたように声を漏らす。
輝く格子の中から、ファウストは目を見はる。あれほどの能力、生半可な使い手ではない。チャラチャラと虫の好かない男だが、あの『LOKI』すら圧倒する実力、認めないわけにはいくまい。
「とどめを刺せ!」
ファウストは檻の中から警告した。
「奴を依り代ごと始末しろ!」
またとない機会だ。タイミングは今しかない。
「うっせえぞおっさん! 少し黙ってろ!
「いいか、よく聞け。その娘はすでに死んでいる。助かる方法などない!」
「馬鹿言いやがれ! ニーナはまだこいつの中にいるんだ!」
「馬鹿は貴様だッ! 奴の言葉を真に受ける馬鹿がどこにいる!」
「黙ってろっつってんだろうが!」
馬鹿が! ファウストは歯がみした。割り切れない奴だ。悪魔に関わったものの末路は決まっている。殺してやった方がまだマシなのだ。
自分なら確実に、息の根を止められる。手元に銃がないのが至極残念だ。
「そろそろ観念しちゃどうだ? それとも、もういっぺん――」
「きゃああああ!」
突然、『LOKI』が叫んだ。
「なっ!……」
「痛いっ! 痛いっ! 痛いっ!」
胸を押さえ、苦しげに身をよじる。
『LOKI』が顔を上げた。恐怖に見開かれた目。怯えた表情――
紛れもなく、人間の感情。
「ニーナ! 元に――」
「こないでえ!」
震える声が、男の動きを制止する。
「お兄ちゃん、誰? なんでこんなことするの? わたし、なにもしてないじゃない!」
その姿は、哀れな少女だ。千々に服は乱れ、無数の生傷を負い、雨に打たれる姿は、これ以上ないほどに哀れを誘う。
だが――
「騙されるな! すべて奴の芝居だ!」
悪魔が人をだますときの常套手段だ。一度とらえた魂を、解放するようなへまはしない。
しかし男は、自分の忠告を無視した。無防備に少女へと近づく。
「やめろ! 猿芝居に引っかかるな!」
「いやぁっ! たすけてッ、おねえちゃん!」
火薬の破裂する音が響いた。
その銃声に、ファウスト自身凍りつく。それは、紛れもなく自分の銃声。
「――シュミさん、なんで……」
細い声は、雨の音にかき消された。
尻餅をついた女が、地に伏した男を見下ろした。その手の中にあるのは、自分の銃。
「……サラ、もうだいじょうぶよ」
目を覚ました女は、ただ一言、そういった。