「ファウスト〜殺戮の堕天使〜」

七章 悪魔の夜

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「シュ・ミ・さ〜ん!」

 妙にハイテンションな声が奥から響いている。

 部屋の中では、今にも(ろう)の尽きかけようとする灯りが、たよりなく部屋を照らしていた。その薄明かりを借りて、部屋の中を見回す。

 なるほど、この部屋に住む人物の特長がよくわかる。理路整然と片づけられた室内。

 自分の部屋とは大違いだ。

「おろ? いねぇや」

 ただ、整理された場に一点だけ、不自然に散らかっている場所がある。磨かれた床の上に雨水で足跡をつけ、目に付いた角机に近寄る。

 四角い紙切れが数枚と、開け放たれた瓶。中身はほぼ空の状態だった。しかしよく見れば底のほうにきらきらと輝く小粒が見える。

 手に取り、さらに詳しく検分する。粉末。クスリだろうか? 薬草から煎じたにしては、不思議な光沢がある。

 奥の方がざわついている。

 ファウストは手を止め、人の気配がする扉を窺った。

 本来なら今、自分は刑の施行を待ち服役しているはずの人間だ。公職の人間であれ、一度犯罪者となれば一転して見る目が変わる。

 特に自分の場合、二年前の前科がある。この状況で、下手に人と会うことは極力避けたかった。

 扉が開いた。

「悪かったな。ゆっくり寝ててくれ」

 男は背中を向けて奥から戻ってきた。にこにこと愛想笑いを浮かべていた顔が、こちらに向くと表情を消す。

「ここの責任者は今、不在だぜ」

「どこへ行った?」

「さぁね、やかましいのもいねぇし。一体どこにいっちまったんだか」

 ファウストは先ほど見つけた小瓶を男に放り投げた。男は片手でキャッチし、不審な顔で中身を覗く。

「それに入っていたものがなにかわかるか?」

 男は底をコンコン、と小突いた。はがれた粉を指ですくい、「ううん……」と唸ってしばらく見つめる。

「ああ、この翠色の粉にゃ覚えがある。たしか、肺病に効くクスリだ」

 クスリ?

 再び投げられた瓶を受け取り、ファウストはその中身を子細に眺めた。

「シュミさんが急患に飲ませたやつだ。しかし西洋医学ってのはすげぇな。いつの間に死病の特効薬なんかつくっちまったんだ?」

「そのようなクスリなど存在しない」

「は?」

「もしそのような特効薬が発見されたなら、すぐにこの街の医師会にも報告が入るはずだ。俺の知る限り、そのような薬物が発見された経緯は存在しない」

「おいおいてめぇ、ナニぬかしてんだ? 医者があるっつうんだから間違いネェだろ?」

 ファウストは鼻でせせら笑った。

「医者が言えばそれが事実か?」

「あたりめぇだろ。患者はそれを信じてんだ」

「権力に盲従する大衆の理論だな。客観的証拠を欠いている」

「てめぇ」

 怒気をはらんだ言葉がぶつけられる。

「シュミさんの何が分かるってんだ?」

「他人の考えなどわかるものか。なぜ、人が言葉を話すと思う。本心を隠してうわべで生活するためだ」

「金もとらずに診察するようなお人好しに、そんな下世話な悪ヂエがはたらくかよ」

「偽善者は愚か者にまさる。哀れなのは貴様のような無知だ」

 ぐぃと胸ぐらが掴まれた。

「それ以上喋ると殺すぞ」

「シャドウ、と言ったか」

 今頃になって衣服に染み込んだ水分が、凍るような冷たさで体から熱を奪ってゆく。

「あれは万人に共通する概念だろう。そのシュミとかいう者に顕れたとしても、おかしくないと思うが」

「てめぇと一緒にすんなよ」

「俺は自分の目で見たもの以外信じんタチでな。このクスリが投与された患者はどこにいる」

 男はきつい表情でファウストを睨む。

「どこだ」

「……向こうのベッドで寝ている。他の患者と一緒にな」

 ファウストは腕を振り払い、奥につながる部屋へと向かった。扉をひらくと、おそらく自分たちの会話を盗み聞きしていたのだろう、何人かがファウストの前で硬直して固まる。

「どけ」

 低い言葉に、包帯を巻いた病人たちはびくりとしてあとずさる。

「こっちだ」

 後ろから声が追い越す。その背中について一番奥のベッドまで歩くと、すやすやと眠る小さな子供の姿があった。

「これで満足かよ」

 ファウストは規則正しく寝息をたてる子供を見下ろした。外見上におかしな点はみられない。脈拍も正常。顔色は少し蒼いものの、呑気な顔で熟睡中だ。

「起こせ」

 ちっ、と舌打ちしたが、意外にも素直に男は従った。

「坊主、ちょっくら起きてくれ」

 柔らかいほっぺたをつまんでうにうにと引っ張る。ぐずるようにうなり、子供がぼんやりと目を覚ます。

「なぁに」

「悪ぃな。この偏屈オヤジが聞きたいことあるってよ

 寝ぼけた瞳と目があう。

「…………」

 ファウストは背を向けた。

「行くぞ」

 有無を言わせぬ口調で、足早に戸口へ向かう。

「ちょっ、おいコラ、待てよおっさん!」

 玄関を出て、彼は「一番街へ急ぐぞ」と言って走り出す。

「なんだってんだよ」

「あのクスリを与えられた患者は何人いる」

「知るかよ」

「そうか。だが少なくとも一二人はいるな」

「どうゆうこった?」

「貴様がどこまで知っているかはしらんが、『翡翠の病』の噂ぐらいはしっていよう」

「ああ。てめぇの悪行も聞いてるぜ」

 ファウストは後ろを一瞥した。

「あれはもともと、人為的に引き起こされた病だ」

 驚いた表情から目を戻し、降りやまぬ雨を見据える。

「まずはじめに、目の色が翠に変わる。これが潜伏期だ。それから、数日で発症する。心臓が次第に硬化し、翡翠に変わって息絶える」

「そいつは聞いてる。シュミさんからな」

「なるほどな、そのシュミとかいう女が今回の契約者(マスター)か」

「マスター、だと?」

「事件の首謀者というわけだ」

 シュッ、と鋭い呼気の音。

 素早く右に避け、がら空きの腹に膝をめりこませる。動きが止まったところへ、大振りぎみの右フックを浴びせた。

 水たまりの中へ、蒼いジャケットが崩れ落ちる。

「単純な奴だ」

「て、め、え……」

「借りは返したぞ」

 ファウストは背中を向けた。

「ここからは俺の仕事だ。そこで大人しくしているがいい」

 パシャパシャと、水を弾く足音が、闇の奥に消えた。

 




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