「ファウスト〜殺戮の堕天使〜」

六章 支配者は語る

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 地下牢での時はゆるやかに過ぎる。

 それは本来、光の下で感じられる時の流れを、昏くじめじめした湿り気が滞らせているせいだろう。

 視界は閉ざされ、カサカサという小さな虫の這う音が耳に入る。普段は気づかない微かな音が、ここでは驚くほど鮮明に聞き取れる。定期的に落ちる水の雫、口から漏れる呼吸の音、それに、心臓の鼓動は、いつもより早く脈打っている。

 松明の一つでもあれば、この寒さに耐えることもできただろう。失ってはじめて、その価値に気づくのは人の常なる愚かさだ。

――あの魔女も、このような感情を抱くのだろうか。

 地上から隔離され、一人地下深くに幽閉されている。あれは人ではないけれども、人並みに孤独を自覚するのだろうか。

――弱気になっている。

 ファウストは自嘲した。

 俺らしくもない。

 狭い檻に入れられて、暗い闇に閉じこめられ、光のない場所で、己の無力さを嘆く。

 なんというざまだろう。

 なんと馬鹿らしい。

 こんなはずではなかった。

 今、この場にいるのは俺ではなく、『LOKI』であるはずなのだ。

 屈辱だ。

 なぜ俺がここにいる。

 なぜこの俺が、そこらに転がる死刑囚(ブタ)どもと同じ立場で、非良心的な判決を待たねばならない。

 奴らはこのとき、はじめて神という存在に縋るのだろう。だが俺は――俺はそんないい加減なものに、もはや愛想が尽きている。

 自ら歩く道ならば、自らで照らす。

 そう決めたのだ。

 銃を手に取り、ズシリとした重みを確かめる。

 これさえあれば、鉄の格子を破ることなど造作もない。コートのポケットから、残り一つの黒水晶の弾丸を取り出し、薬室に収納する。銃をかかげて狙いをつけた。

 脳裏に、昨夜の光景が蘇る。

 闇の中、ぼぅ、と青白い影が浮かび上がった。

 一瞬の幻。

 それはすぐに消え去った。

 銃を下ろす。

――あれは、本物だったのだろうか。

 そんなはずはない、と理性は告げる。

 疲れていたのだ。朦朧とした頭の中、無意識から生まれた一瞬の幻覚に違いない。だが――

 幻は、人を殺せはしない。

 煙草を吸いたい、とファウストは思った。胃の中がむかむかする。

「……?」

 足音だ。

 見回りにでも来たのだろうか。銃を懐にしまい、ファウストは地面に手をつく。

 松明の明かりに目を射られる。

「こんなところにいたんですかぁ!」

 脳天に響くキンキン声。

「何をしに来た、チキンナイト」

「やだなぁ、ワーグナーですよぉ。忘れちゃったんですかぁ?」

 わかっている。

「やっぱり捕まっちゃったんですねぇ。人間、悪いことはできないモンです」

 ファウストは転がっていた小石を掴むと、ワーグナーに向かって投げた。

「あた。何するんですか」

「うるさいッ! こんな狭い場所で大声を出すな!」

「何怒ってるんですかぁ。あ、ところでこの前の請求書、ツケたまんまなんですけど、そろそろ払ってくれません?」

「鉛弾ならいくらでもくれてやる」

 ファウストが銃を取り出すと、ワーグナーはささっ、と格子の蔭に隠れた。おずおずと顔を出してきて、こちらの顔色を窺ってくる。

 目障りだ。

「だって、泣きついても母上も父上もビタ一文だってだしてくれないんですよ〜。頼みはファウストさんだけなんですよ〜。お願いしますよ〜」

「……泣くな。余計目障りだ」

 ファウストが銃をしまうと、ワーグナーは再び元の位置にも戻ってきた。

「いやぁ、話せばわかってくれると思ってました。ぼく、はじめてあなたの優しさに触れた気がします」

「見せてみろ」

 ワーグナーは満面の笑みで、一枚の紙切れを差しだした。先日見たものと寸分違わぬそれをひったくり、松明の明かりにかざしてみる。

 なぜだろう。

 桁が一つ増えている。

「ううっ……可哀想なメロウちゃん」

 突然ワーグナーが泣きはじめた。

「借金のカタにあんなトコロに入れられて、継母代わりのお姉さまにいびられる毎日。九人いる兄妹といつかまた食卓をかこんで慎ましい生活を送ることが今の夢なんだそうです。泣かせる話じゃありませんか」

「…………」

「ぼくはあの子を自由にしてやりたいんです! そのためにはそこに書いてある金額がどうしても必要だといわれて……」

「……めでたい奴だ」

「は? 今なんと?」

 ファウストは咳払いをして腕を組んだ。

「いや。立派なものだ。だが、そういうことなら是非協力させてもらおう」

「本当に!?」

「ああ。だがそれには条件がある」

「ええ〜? タダじゃないんですか?」

「甘えるな。まず俺の質問に答えろ」

 イヤそうな顔をするワーグナーを尻目に、ファウストは地面に腰を下ろした。

「お前は今、ウッドマンの下で動いているらしいな。どうだ? 捜査は進展したか?」

「いえ! もう全然!」

「だろうな」

 やけにはっきり断言するワーグナーを、ファウストは横目で眺めた。

「あの人仕事そっちのけで、一番街に住んでる女のひとのとこに通ってるらしいんですよ! まったく、騎士の風上にも置けませんね!」

「お前が言うな」

「まったくです!」

 まったくわかってない様子で、ぷんぷんと愛嬌のある怒りをふりまくワーグナーに、ファウストは白い目を向ける。

「あ、そういえば――」

 ワーグナーはごそごそと袖口から何かを取り出した。受け取ってみると、キラキラと翠色の輝きを放つ小石だ。

「綺麗でしょ? 今日調査した犯行現場から見つけたんです」

 翡翠、だな。

 ファウストは松明の明かりにかざし、じっくりと検分した。多少、白濁しているものの、稀少な宝石の一つだ。

「とっちゃ駄目ですよぉ。メロウちゃんにプレゼントするんですから」

 しつこく伸びてくる手を邪険に払いつつ、ファウストは翡翠を手に乗せて、強く握りしめた。

「他にはなかったのか?」

「なかったですよぉ。返してくださいよぉ」

「犯行現場で見つけた、と言ったな。どこの外区だ」

「たしか、三番街です。特にひどかったですよ。家族全員メッタメタのギッタギタに切り刻まれてて、あんな可愛い子に、なにか恨みでもあったんですかネェ」

(……昨日のあれか)

 刻まれた傷のいくつかは、自分の魔術によるものだろう。

「それに、二番街でも一人殺されてましてね。あんなの見せられたら僕、今日眠れないですよ。夢にでちゃう」

 ファウストはワーグナーの頭を掴み、ぐぃとこちらに引き寄せた。固い頭がカン、と鉄格子にぶつかる。

「ひぃぃぃ! な、なんですかっ?」

「今、二番街も、と言ったな」

 ワーグナーはわし掴みされた頭をがくがくと縦に揺らせた。

「では、昨夜は二人も殺されたのか」

 再び頷くワーグナーをみて、ファウストの中に危機感がつのる。

 残るは一人だ。

 悠長に待ってはいられない。

「ワーグナー、今すぐ俺をここから出せ」

「えええええええええええええええええぇぇぇぇぇ!」

 じたばたもがいていたワーグナーは、その言葉を聞いた途端に目を丸くした。

「さっさと鍵を持ってこい。今すぐだ」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよぉ。そんなの、駄目ですよぉ。ぼくが怒られちゃうじゃないですかぁ」

「明日になれば金を工面できなくなる。城に財産を残らず巻き上げられるだろうからな。その前にくれてやる。親切だろう?」

「で、でも」

「メロウとかいう娘にあわせる顔がいるのだろう。ならば答えは一つしかないはずだ」

 たたみかけるようにファウストは言った。若き少年騎士は足りないオツムをフル稼働させ、名誉をとるか女をとるか、一世一代の葛藤を繰り広げている。

 まだ押しが足らんか。

「お前は黙っていればいい。それともなにか? 借金で首の回らない人生をこれから生きていくつもりか?」

「ううっ」

「決めるのはお前だ」

 ファウストはそれだけ言うと、後は沈黙した。

 穏便に脱獄できればそれでいい。だが無理なら、別の手段をとるまでだ。

「……わかりました」

 珍しく、ワーグナーが小さな声で喋った。無意味にたくましい目をして、片腕を振り上げる。

「ぼくも男です! わが愛しのマドンナ、麗しのメロウちゃんのためならば国家反逆罪の一つや二つ! もう迷いません。迷いませんとも! 愛のために!」

「そうか」

 男らしく去ってゆく背中を見ながら、ファウストはその小柄な影が少しだけ哀れに思えた。だが今は、そのちっぽけな勇気に感謝するとしよう。

 もはや一刻の猶予もないのだ。

 ふと、闇の(とばり)の中で、何者かの気配を感じた。それから、カチャリと錠前の開く音。

 息巻いたワーグナーが鍵を手にして戻ってきたとき、そこにすでにファウストの姿はなかった。

 




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