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「最悪な気分だ」
ファウストは鉄格子を睨み付け、低く呟いた。汚臭と異臭と腐臭、三ツ巴のコラボレーションが間近で実現し、鼻が曲がるような悪臭が立ちこめている。
今の今まで、自分がここで眠っていた事実が信じられない。
「何故俺がこんなところに入らなくてはならん」
「勘弁せい。それもこれも、お主があれを追いはらったせいじゃぞ」
”剣帝”はそういって、髭を撫でた。
ふん、とファウストは鼻で笑う。
「あの臆病者の騎士か。奴は今、何をしている」
「ウッドマンの下じゃ」
「……なに?」
ファウストは不審げに眉を顰めた。
「お主は知らんじゃろうがの。今、『LOKI』の捜査の指揮を任されておるのはあ奴じゃて」
「なんだと!」
ファウストは格子ごしに詰め寄った。
「あんなうらなりに何が出来るというのだ!」
「ふむ。どうかのう。儂もマーリン殿の考えはほとほと読めぬ」
”剣帝”はあくまでのほほんと答える。
「おまけにお主の行動も読めぬわ。かっかっか」
「笑い事ではないだろう!」
いきり立つファウストを、”剣帝”は皺の刻まれた目で眺める。
「なに。心配いらぬ。なにせ、マーリン殿は百手先を読む知将じゃて。意味なく抜擢したわけではなかろう」
「だがッ――」
マーリンの先読みの能力はファウストも承知している。
奴の得意は占星術だ。天の星をみて時の情勢、不吉の兆候、未来に起こる数々の事象を詠みとるという。変わり映えのしない景色の一端に隠された啓示、それをを汲みとる独特の占術法。
その特異な術でこの街を幾たびも救い、ここ百年ほど王位の隣を占めている、七老最古の長老だ。
もちろん、そんな非論理的な予測法などファウストは認めてはいない。だが、奴自身のずば抜けた先見の妙は認めざるを得ない。
二年前――無名の自分を『翡翠の病』対策の場へ引きずり出したその眼識を、ファウスト未だに畏れている。
(底の知れない何者かなのだ。あの宰相は――)
「ほれ、そう難しい顔をせんと飯でも食え」
”剣帝”はそういって、かたくなったパンを差しだした。
「……いらん」
「しっかり食わぬと早死にするぞ」
「ふん。飯を食うより煙を吸っているほうが長生きするわ」
ぐぅ。
「…………」
「かっかっか。まだまだ修行が足りぬのう。ほれ、食え」
ファウストは差しだされたパンをひったくり、そのままかじりつく。不味いが、腹の足しにはなる。
「しかしお主も大胆じゃのう。夜中に血まみれで城に駆けこむとは。ずいぶんな騒ぎじゃったと聞く」
「……まぁ、いろいろあってな」
なにしろ昨日は、生死の境を二度もくぐったのだ。疲労の極致では頭もろくに働かず、”白城”に着き次第拘束され、この地下牢に押し込められた。
今にして思えば、なんと迂闊なことだろう。
「それに、また一人、殺されてしもうた」
「そうだな」
「ふむ……?」
心なしか、”剣帝”の視線が鋭くなった気がする。
「それより、俺の銃はどうした」
「ふむ……返したいのは山々じゃがのう。暫し気になることがあっての」
そのとき、息を切らしてやってきた”時の輪”騎士が、「”剣帝”様!」と声をかけた。”剣帝”は騎士に近寄り、何かしら耳打ちを受ける。
「ご苦労。下がって良い」
騎士は一礼して去っていった。
「すぐにマーリン殿が来る。はよう朝食を済ませい」
「……こんなところで謁見とはな」
「そういうことになるのう」
冷たい地下牢に、複数の足音が近づいてきた。
騎士に囲まれ、マーリンが姿を現す。
ファウストの表情に僅かな緊張が走る。
「久しぶりだな、魔術師」
マーリンの姿は、二年前の姿と何一つ変わっていなかった。巨大な頭巾に覆われた顔は伺い知れず、ゆったりとした外衣のせいでその体格すら判然としない。大人なのか、子供なのか、老人なのか、男か女か、または人間であるかどうかすら疑う。ただ目の位置に空いた穴からのぞく、涼やかな瞳だけが奴の生身の部分だ。
マーリンが口をひらく。
「いかなる罪状で拘束されたか、わかっておろうな」
「見当もつかんな」
ファウストは憎々しげに呟いた。
「俺は何もしていない」
「われもそう信じておったがな」
そういうと、マーリンは供に連れた騎士の一人から何かを受け取り、こちらへ放り投げた。
ごとり、と重い音がして、『メフィスト』が足元に転がる。
「それはお前の武器であろう」
ファウストは黙っていた。
「銃火器の類は我が国では禁じておる。それを知りながらなおかつ所持しておるのは、そなたくらいであろうな」
弾倉には弾薬が装填されていた。手に取ると、声がかかる。
「撃ってみよ」
ファウストは不審な視線をマーリンに向けた。
「なんだと?」
「無罪を証明したいのであろう? ならば撃て」
からかわれている、とファウストは思った。
「……いいだろう。そこを動くな」
ざわっ、と周りの騎士たちに緊張が走る。横にいる”剣帝”はのんびり構えたまま、成り行きを見守ったままだ。
ファウストは撃鉄を下ろした。
騎士の一人が血相を変えて飛び出してくる。
「血迷いおったか! ”大老”殿にそのような――」
――パンッ。
その鼻先を高速の弾丸が横切る。
石の壁に小さな穴が穿たれた。
「これでいいのか?」
黒い煙を上げる銃口を吹き消し、ファウストは銃を懐にしまった。
「”剣帝”」
マーリンに呼ばれて、”剣帝”は弾頭の穿たれた場所へと歩み寄り、その穴をのぞきこんだ。
「昨日殺された者の頭部に空いていた穴は、このくらいであったか」
「御意」
なっ――
「どういうことだっ!」
「沙汰は追って知らせる。暫くその中で謹慎しているがよい」
マーリンは背を向けて、供の騎士と去ってゆく。
「マーリン!――くそっ、”剣帝”!」
「明日、中央大聖堂にて神事外法廷が開かれる」
”剣帝”の声がひどく冷たく聞こえた。
「そのときまで、心の準備をしておくがよい」
「き・さまらぁぁぁ!!!」
ファウストは歯ぎしりし、やり場のない怒りを鉄の檻にぶつけた。