「ファウスト〜殺戮の堕天使〜」

五章 神の奴隷

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 冷たい風に身を晒し、ファウストは人気のない丘の上にきていた。ここは二年前、多くの人間が磔にされ、火に捲かれたいわくつきの場所だ。誰一人近づこうとはしない。

 彼は落ちていた木の枝を使い、剥き出しの地面に魔法陣を描いた。魔法陣は二つ。巨大な円に六芒星の印を、もう一つには正三角形を描き、足で潰さないようその上に立つ。コートのポケットから黒水晶を加工した銃弾を取り出し、六芒星の中心へ投げ入れた。

 空を見上げ、月が雲で隠れるのを待つ。

 冬の空は美しい。静謐な天蓋に音もなく星が煌めき、それが何万、何億とも知れず地平線まで広がっている。その広大な星屑の海には巨大な大河が雄々しく流れ、ゆっくりその上を、夜の雲が滑ってゆく。

 寒さに耐えて浮かぶ月は蒼く、たまに雲間に隠れてはすぐに顔を出す。しばらくの我慢を要求された。

 ようやく、一抱えほどもある雲が姿を現した。ファウストは視線を下ろし、懐から取り出した古びた本をめくり、魔術言語――と彼が呼ぶ――で呪文を詠唱する。

 雲が月を覆い、丘が黒く染まる。闇に覆われた街に、不思議な旋律と独特の韻をもった朗読が朗々と響いた。

 ぶわっ、と、目の前の闇の中に形が生まれた。鋭く尖った瞳が開き、低い唸りをあげる。大きくあいた真っ赤な口に、二本の鋭い牙がぎらりと光った。

 雲が去り、月が照らす。

「ニャァ」

 その黒猫は鳴いた。

 暗闇から滑り出ると、一瞬こちらを見上げ、すぐに興味をなくしてごろん、と地面に横になる。

「フラウロス」

 ファウストは厳しい声で、眼下の猫に声を掛けた。

「貴様に聞きたいことがある」

 黒猫は僅かに耳をぴくぴくと振るわせたが、すぐに何事もなかったかのように、前肢を顔に擦りつけ、器用に顔を洗い始めた。

 まるで猫にからかわれている気分だ。

「フラウロス!」

 幾分苛立ち混じりの声で、ファウストは声を掛ける。今度は完全に無視される。黒猫は自分の毛の手入れに忙しい。

「……いいだろう」

 ファウストは懐に手を入れ、中からまたたびの実をとりだした。

 黒猫の動きが止まった。鼻をひくひくと動かし、振り向くと、ファウストの手に大好物を発見する。黒猫はむくりと立ち上がり、ファウストを下から見つめた。

「こいつが欲しいか、フラウロス。ならば俺の質問に答えろ」

 猫の瞳が妖しく光った。まがまがしいオーラが辺りに立ちこめる。か弱い小動物の雰囲気は薄れ、次第に本性を剥き出しにした醜い化け物へと変貌する。

 膨れ上がった身体はしなやかに伸び、つぶらな瞳は赤く燃え、耳まで裂けた口には、火とも舌ともいえない、真っ赤な揺らめきがちろちろと踊った。尾は数倍長く伸び、その先に蛇の頭が現れ、ファウストを威嚇する。前肢と後肢の先からは研がれた爪が一斉に突きだし、フラウロスはそれを使って召喚師であるファウストに襲いかかった。

 だが、その爪は届くことなく、見えない壁に阻まれた。

 ファウストの足元にある魔法陣が光っている。この場所から動かない限り、悪魔は彼を傷つけられない。

 ファウストは言った。

「勘違いするな。ここは貴様らの領地ではない」

『おのれ』

 フラウロスははっきりと人の言葉を喋った。

『魔術師、我を愚弄するか』

「そうではない。公正な取引をしようというのだ。いにしえの盟約に基づき、我はソロモンの末裔として、貴様らの無駄な能力を現世で有効に活用してやろうというのだ」

『笑止。(われ)が汝の配下にあるは、()が王の命による。非力なる人間の命令を、何故(われ)が聞かねばならぬ』

「こいつが欲しいか」

『ニャァ』

 啼いてから、フラウロスは我に返ってぐるる、と低く唸った。

『おのれ小癪な魔術師。モノで釣るとは卑怯なり』

「ふん。猫の性分を忘れぬ貴様が悪いのだ」

 フラウロスは爪を引き、渋々ながら腕を組んでファウストを見下ろした。

『なんなりと聞くがよい。ただし、先にそれを渡せ』

「質問が先だ」

 フラウロスは『むぅ』と悔しげに唸った。

『吝嗇家め。楽には死ねぬぞ』

「貴様らの厄介になる気はない」

『愚かな。汝が宿命はすでに我らが手の中よ』

 ファウストは再びまたたびの実をちらつかせた。

「……いらんのか?」

『ぐぐぐ……お、おのれ。はやく言え。なにが聞きたい』

「貴様がさっき言った『王』のことだ」

 フラウロスの目が一瞬細く、小ずるく輝いたのをファウストは見逃さなかった。

『忘れたのか、魔術師。貴様に封じられたのだ。我が主は』

「……奴は今、何処にいる」

『貴様に封じられ、地の底で眠っておられよう』

「確かか」

『無論だ』

 嘘だな。ファウストは直感した。悪魔との交渉は虚偽と実を見分けるだけの力量がいる。生半可にはいかない。

 質問を変える。

「ところで、何故貴様はこんなものが好物なのだ?」

 ファウストはまたたびの実を示し、フラウロスに問うた。フラウロスはふふん、と熱い息を漏らす。

『人間にはその高貴な香りはわかるまい』

「そうだな。人である俺にはわからんが、畜生である猫にはそれがわかるらしい。ならば貴様も畜生の一匹というわけだ」

『……奢るなよ、人間。汝がどれほど優れていようと、我らに比べれば虫ケラと同じ。歯向かうならば腑をえぐり出し、頭を噛み砕いてくれよう』

 紅玉の瞳が物理的な殺意を伴ってファウストを射すくめた。常人ならば心が砕かれ、発狂してもおかしくないほどの視線の圧力に、ファウストはたじろぐことなく対峙する。

「ハッ。爵位すらもたない貴様になら俺でも勝てる」

『言いおったな!』

 フラウロスは口を大きくあけ、口腔の奥から紅蓮の炎を吐き出した。燃え盛る炎はファウストを包み込み、辺りを明るく照らす。結界に守られているとはいえ、あまりの熱に身体中の水分が全て蒸発し、生きながらに干涸らびていくようだ。

『どうだ。思い知ったか!』

 ファウストはフラウロスを見上げ、薄く笑った。

「この程度か」

『愚かなり!』

 火勢が増した。まるで地の底の窯で焼かれているようだ。着ているコートがぷすぷすと焦げ始める。意識が朦朧としてくるが、それでも不敵な笑みだけは崩さない。

「……この程度が貴様の実力ならば、軍団の実力も知れていよう。貴様らにはすでに復讐を果たすだけの力量がないと見える」

『無知な魔術師! 我が王はすでに復活し、力を蓄えておられる! 今すぐにでも可能な事よ』

「……そうか」

 悪い予感が当たったか。

「奴は、復活していたか」

『そうよ! だが今さら知ったとてどうなる!? このまま消し炭にしてくれるわ』

「……こいつも焼けるな」

 ファウストはまたたびを高々と差しだした。

『ぐっ……』

「足に枷を着けた身では、満足に好物も得られまい。次に機会があるのは、千年後か、二千年後か……」

 炎が止んだ。

 赤い景色が立ち消え、元の暗闇の静けさが舞い降りる。

 喉がカラカラに渇いて、死ぬほど水が欲しかった。だが、まだここで弱みを見せるわけにはいかない。

『……そうだ。魔術師。我が王は復活なされた。今は適当な滋養を求め、この街を彷徨われておられる』

「……なる…ほどな」

――水が、欲しい。

『さぁ、質問には答えたぞ。それを寄こせ』

「ああ……くれてやる」

 ファウストはまたたびの実をフラウロスに投げつけた。フラウロスは空中で器用にキャッチすると、するするするとその巨体を縮ませ、元の黒猫の姿へと戻った。

 またたびを抱えてじゃれ始める。

――水が、欲しい。

 心臓の鼓動がやたら激しく聞こえる。

 体内の血が沸騰し、ぐつぐつと煮えたぎっている。

 どこからかごうごうと、滝がなだれ落ちるような音が聞こえた。

――水だ。水を――

 ふらついたファウストは、魔法陣から足を踏みはずした。

 その途端、黒猫はまたたびを放りだし、巨大な獣となってファウストに襲いかかった。

 ガキンッ!

 咄嗟に懐から『魔法銃』を取り出し、ファウストは爪の一太刀を受ける。

 が、強力な膂力にかなわずはじき飛ばされた。

 フラウロスは続けて、第二撃を振りかぶった。

――畜生がッ!

 彼はひりつく喉から必死に声を絞り出す。

「”空白(ブラフ)”!」

 パキン、と水晶の割れる音がした。その途端、フラウロスは苦悶の咆哮をあげ、その身体から黒煙が吹きだした。六芒星の魔法陣が光芒を放ち、黒い肉体は現世での実体を失ってゆく。

 ファウストは目を逸らさず、地獄へと送還されてゆく悪魔を凝視した。完全にその存在が消え失せ、気配すらも失せた瞬間、媒介となった黒水晶は粉々に砕けて跡形もなくなった。

 ゼェ、ゼェ。

 荒い息が繰り返される。フラロウスがいなくなったことで、彼は気力を使い果たし、その場に崩れ落ちた。

 目の前には、剥き出しの地面が見える。

 がっ! と、彼は足元の固い地面を引っ掻いた。何度も、何度も血が滲むまで引っ掻いて、やがて湿った土を探り当てると、それを両手で掴んで口の中へ押し込む。

 当然飲み込めず、彼は吐き出した。泥まみれの口を拭い、爪が剥がれた指から血が流れているのを見つけると、今度はそれにむしゃぶりつく。

 それでも渇きは癒えなかった。

 彼は吠えた。

 そして水を求め、丘を降りた。

 




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