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「ふざけるなっ!」
部屋全体が震えるほどに、その声は大きく響いた。
肩で息をして、今のが夢であったことに気づく。全身にまとわりつく不快な量の汗に覆われ、激しい動悸をじっと聞く。
悪夢から目覚めた後は、いつもこうだ。全身を包む悪寒が消え去るまで、何も手にせず呆然とする。だが、それがどんな夢だったのかは、いつも思い出せない。
ファウストは、自分が暗い部屋の中で寝ていたことに気づいた。自分以外に何もなく、全身を包む悪寒は、部屋自身の寒さも手伝っているのだろう、とも思う。
――何故こんな所にいるのだ?
確か、自分は暴漢に襲われ、逃げている最中だったはずだ。
はっきりしない意識の中、とりあえず起きあがる。
貴慣れたコートのポケットを探る。別に失くした物はないようだ。銃もちゃんとある。
…いや、一つ。
ファウストはパイプを捜したが、闇の中に手探りでは、満足に見つけられない。
むっつりと不機嫌になる。
脇腹に手を当てる。折れていたはずのあばらは何事もなかったように癒えていた。
――あれも夢の中の出来事だったのか。
部屋の出口まで歩いていき、戸口から様子を伺う。左のほうから灯りが漏れていた。
自然とそちらに足が向かう。
広いホールへと出たところで、彼は思わず足を止めた。
揺らめく蝋燭の灯に照らされ、一人の修道女が深くうなだれていた。打ち砕かれた聖像の前に跪き、頭のない首に十字のペンダントをかけ、両手を組んで祈りをささげている。跳ねるような金髪が蝋燭の灯りに美しく煌めき、何処か浮き世離れした光景を思わせた。
脳髄を痺れるような感覚が走る。
修道女は目をあけ、やおら立ち上がると、聖像からペンダントをとり、自らの首に戻した。振り向いた黄金色の瞳が薄汚れた自分を捉える。
「目が覚めましたか」
ファウストは目をそらし、短く答えた。
「…ああ」
それ以上言葉を続けず、修道女は燭台の一つを手に、こちらへ歩いてくる。
「どうして俺を助けた」
燭台の灯りに照らされた顔は、人というより一つの芸術のようだった。形ばかりが美しく、人間みの一切を欠いた美の彫刻。
「主はあなたを哀れんでいます」
ファウストは鼻で笑った。
「ハッ。説教が目的か」
「あなたが犯した罪は主の御手ですら拭い難い。汚れた敵の鉤爪に囚われた身では、いくら贖罪をかさねようと、救われることなどありません」
「神か。そんな不完全なものの、何処が信じられる」
「信じぬ者に救いはありません。主は偉大です。頭をたれて慈悲を乞えば、いつかその咎を赦されます」
「何年先の話だ? それは千年後か? 二千年後か?」
皮肉を込めて、彼は呟く。
「俺は貴様らが嫌いだ。信仰の名の下にあらゆるものを押さえ込み、迫害し、略取し、気に入らぬものは全て壊す。全てその神のためだ。自らが救われるために他のどのようなものも犠牲にする。それが貴様らの正体だ」
「我々は違います」
「違うものか。宗教家はどれも同じだ。見かけがどれほど清らかだろうと、中身は完全に腐っている。排斥された者はいつまでも傷を引きずる。色褪せることなく、ぐつぐつ憎しみを煮えたぎらせてな」
暗い焔を宿し、ファウストは忌むべき過去を見据えた。
修道女は臆することなく、凛として声をあげる。
「いくら否定しようと、あなたも主の子の一人なのです」
「馬鹿馬鹿しい」
ファウストは床に唾を吐きかけた。聖堂跡らしきこの場所も、かつては薄汚れた守銭奴どものアジトだったに違いない。
「貴様らのおかげで、貴重な資料はほぼ灰となって焼かれた。断片だけでも捜しだすのに一苦労だ」
彼が欲しがるテクストのほとんどは古代、過去に栄えた王朝や民族国家の歴史に由来する。総括して彼が『魔術』と呼ぶもののほとんどは、原初思想や亜人崇拝を祖先とする、異端遺産だ。彼が行うのは、掘り出した遺産の再利用に過ぎない。
それでも、その威力は絶大であり、解読できる者にとっては、百万の富より価値がある。
だが教国圏にとってそれらは全て唾棄すべき邪教の産物だ。審問官の手にかかり、公的に破壊され、数多の文化が塵と消されている。
「俺は全ての異教文化の末裔だ。貴様らが築いたあらゆるものを、この手で粉砕してくれる。何もかも全て、一つ残らずだ」
「復讐に心を灼かれてはなりません。それこそ悪魔の思うつぼです」
「悪魔だと? 知ったふうな口を利く」
――貴様に奴らの何がわかるというのだ!
喉元まで出かかったその言葉を、口に出す直前で呑み込む。
「――くそっ!」
「この街には、報われぬ魂が数え切れぬほど存在しています」
修道女の瞳が、はじめてファウストからはずれた。
「あなたにひとかけらでも勇気があるならば、主に帰依し、死んでいった者たちの慰めとなるべきです」
視線を戻すと、黄金色の瞳とぶつかる。
「ハッ。死人のことなど知ったことか」
何故か目を逸らしてしまう。
「信仰など、くそくらえだ」
修道女の瞳に、哀れみの色がよぎる。
「それでも神はあなたを見捨てないでしょう。あなたの中に、信仰の胤があるうちは」
「黙れッ! もうたくさんだ!」
ファウストは怒鳴り、背を向けた。
「ミス・マルテから離れろ! 化け物めッ」
突然響いた罵声に、ファウストは視線を鋭くする。
薄い月明かりを背にした何者かが、開かれた扉の向こうからこちらに向けてなにかを突きつけた。
しなびた花びらが何本か足元にこぼれる。
「……どうして貴様がここにいる、ウッドマン」
「こちらのセリフだ! 早く離れろファウスト! この教会は貴様のような下賤な輩がいていい場所じゃない!」
「神聖だと? すでに権威の失われた廃屋に価値などあるものか」
「貴様ぁ!」
ウッドマンが剣に手をかける。
「やめなさい」
背後から響いた声に、その手がぴたりと止まる。
「マルテ様ッ、しかし」
「みだりに力をふるってはなりません。その剣は本当に必要なときお抜きなさい」
「は、はい」
まるで飼い慣らされた猫だ。ファウストは「ふん…」と鼻で息を吐き、からかいがいのなくなったウッドマンに尋ねた。
「それより、四番街の見回りはどうした? こんな場所で油を売っている場合ではなかろう」
「今頃なに言ってる! 四番街ではすでに一人殺された。今は三番街を見回って――」
「なんだと!」
ファウストは足音荒く近づいてウッドマンの胸ぐらを掴みあげると、壁に押しつけた。
「なにをやっていた!」
「ひっ……!」
「あれだけの人数で結果がそれか! この役立たずどもが!」
「おやめなさい! ここでの争いは私が許しません」
修道女の言葉に、ファウストは手を離した。すとん、とウッドマンが尻餅をつく。
「状況を説明しろ」
「え、えらそうな口をきくな!」
「なんだと」
降りかかった花びらを払いのけ、ウッドマンが立ち上がる。
「お前、つけられた監視役を追い払ったそうじゃないか。その間にまた殺されたんだ。誰だって疑うさ」
冷徹な目に見据えられ、ウッドマンが息を呑む。
「どういう意味だ」
「僕は前からお前が怪しいと睨んでたんだ。この殺人鬼――」
ファウストは握っていた拳を目の前に叩きつけた。衝撃で、脇に立てかけられていた蝋燭が床に落ちる。
腰を抜かしてその場にへたり込んだウッドマンを見下ろす。
「”白城”へ行って伝えろ。マーリンと謁見したい、とな」
落ちた花束を踏みつけ、彼は薄闇の中へと姿を消した。