「ファウスト〜殺戮の堕天使〜」

五章 神の奴隷

/ 5 /

 

 その声を聞いたのは、丁度午前零時を告げる鐘の音が聞こえた直後だった。

 濡れた口を拭い、顔を上げる。ファウストは放置された水瓶を蹴りつけ、残っていた僅かな雨水を地面にぶちまけた。

 そこそこに渇きも癒え、周りに注意が向くまでには回復したようだ。

 懐から銃を抜き取り、声の聞こえたほうへと走る。走りながら、ポケットを探り、鉛の銃弾を薬室へ装填する。

 静まり返った街のおかげで、声は断続的だがはっきり届いた。耳を頼りに突き進み、これが『当たり』であることを知る。

 目の前を巨大な影が塞いだ。

 それは太った中年女だ。至るところに裂傷が見られ、痛々しい量の出血が見られる。

 その目は恐怖にひきつり、助けを求めてファウストを見た。だが声を出す前に、建物の中から伸びてきた腕が彼女の髪を掴み、強引に中へと引きずり込む。悲鳴があとに続く。

――何が起こっている?

 ファウストは撃鉄を下ろし、一度大きく息を吐いてから、一気に踏み込んだ。

「そこま――」

 彼は絶句する。

 中の様子は凄まじいの一言に尽きた。散乱した椅子やテーブルには、闇よりさらに濃厚な、どす黒い血痕がべったりと付着している。それが天井から壁から、ゆっくりと垂れ落ち、何より生々しく、ここで起こった惨状を物語っていた。

 嗅ぎ慣れた血の匂いと、果物が腐ったような匂い。ブレンドされた悪臭に、まるで悪酔いしたかのような気分に陥る。

 部屋の中央では、細い腕に首を掴まれ、宙づりにされた中年女が、空気を求めて喘いでいた。その下には、同じように切り刻まれて、もはや事切れた男の死体が転がっている。

 その光景は、決して正気のものではない。

「動くな!」

 彼は照準を、返り血で染まった少女の横顔に向けた。

「その手を離せ」

 少女の手には、食事に使うナイフが握られていた。普段は肉を切るための道具だが、今は人を殺すために使われている。いや、肉を切る、その行為自体に変わりはないのかもしれない。

 どちらも用途は同じだ。

 少女はファウストの忠告を無視し、手にしたナイフで獲物の喉をかき切った。鮮血が噴水のようにふき出し、中年女の顔が紙のように白く生彩(いろ)を失ってゆく。

 ちっ――と、ファウストは舌打ちし、引き金を引いた。撃鉄が弾けて火薬に着火し、爆発的な推進力を伴って鉛の弾頭が加速する。

 少女は手の中の新しい死体をこちらに向けた。

 弾頭は肉の盾で防がれる。中年女の身体がビクンッ、と跳ねた。

(まずい)ファウストは思った。

 再装填するには近すぎる。

 少女は死体を捨て、無造作にこちらへ走ってきた。ナイフを月明かりに閃かせ、血だまりの床を蹴る。

 突きだされた刃をかわし、ファウストは拳を握る。彼は小さな身体へ思い切り拳を打ち込んだ。確かな手応え。

 だが、止まらない。

 首筋のヒヤリとした感覚に、ファウストは戦慄した。空いていた手で少女の腕を掴む。鈍い輝きが目の端で光った。

 子供とは思えない膂力だ。

 じりじりと、冷たい刃が首筋に接近してくる。精一杯に押し返しているが、情けないことに力負けしている。

 眼前には少女の顔があった。その顔は歪んでいた。殺人鬼の笑みではなく、自分が為したことへの後悔と恐怖、深い絶望と悲しみでぼろぼろと涙をこぼしている。

 意識と別に、身体が動いている。

 そんな印象を受けた。

「どう言うことだ! 何故、こんな事をする!」

 少女は口を開いた。

 ウーゥ……アア……

「なんだ? 何を言っている! まともに喋れ!」

 少女は言葉にならない言葉を繰り返し、首を振った。

 これでは話にならない。

 喉にチクリと痛みが走る。悠長にしている時間はなかった。

 彼は短く詠唱した。少女に接した手から、次第に熱が奪われてゆく。その代わり、触れている場所がみるみる氷の皮膜に覆われていった。掴んだ少女の腕を強く握ると、凍った皮膚がパキリ、と音を立てる。

 異変を感じ、少女の身体が飛びのく。

 狙いどおりだ。

 彼は目を閉じ、再び呪文を口にする。手と手の間に小さな粒子が渦を巻き、それが幾重にも交差して、次第に透明な水晶を形作った。

(……この程度が限界か)

 目をひらき、荒い息で手を下ろす。直径10cmほどの水晶は、支えもなく空中に浮かんだまま、キラキラと光っている。

 少女の影が動いた。

 右に左に蛇行して、小柄な影が迫ってくる。

 ファウストは腕を振り上げ、銃の柄で思い切り水晶を打ちつけた。

 水晶が破裂する。砕けた破片が、四方八方へと四散した。一つ一つが十分な殺傷力をもつ、危険な氷の刃(フリーズ・エッジ)だ。

「くっ!」

 ファウスト自身、いくつかの鋭い切っ先に身を削られる。

 氷の刃の一団は、ところかまわず辺りに降り注ぎ、当然少女の身にも届いた。

 無数の氷刃が小さな身体をえぐる。むきだしの肌が切り刻まれ、赤い血が飛び散った。大腿部を深く貫かれ、足がもつれた少女は無様に転んだ。

 起きあがろうともがいている間に、ファウストは薬室に弾丸を仕込む。そして、足元でもがく少女の頭に照準(ロック)した。

 今度は外すことはない。

「……最後に答えろ。何故こんな真似をした」

 反応はなかった。

「答える気はなし、か。それもいいだろう」

 彼は引き金を絞り――

 その手を止めた。

 乱れた髪の下から、穏やかな瞳がのぞいていた。それは死を受け入れ、気高い殉死の道を自ら選んだ者のみが持つ、愚かで純粋な瞳だ。

「……そんな目をするな」

 忌まわしい記憶が蘇る。

 まただ。

 また一人殺さねばならない。

 無垢な処女を、

 磔にして、

 槍で突き刺し、

 朱い血を奪うのだ。

「その目で俺を見るな!」

 俺に何をしろというのだ?

 俺に何が出来るというのだ?

 俺に何もできるはずがない。

 俺はただの人間だ。

「俺は――ぐぅ!」

 下から伸びてきた腕に、喉元を掴まれる。細い腕は太い首にするりと巻きつき、驚異の握力で気道を塞いだ。こひゅ、という頼りない呼気が漏れる。

(くそっ、この俺が……)

 過去になど囚われ、正常な判断をなくすとは。

 後悔。

 下らぬ言葉だ。

 自分の中に、まだそんな単語が存在するとは。

 すでに忘れたはずだった。

 記憶の中に封じていた。

 何故今さらに思い出す。

 下らぬ、過去など――

 アアゥ……アアゥ……

 遠のく意識の外側から、懸命に訴える声がする。

 少女の顔が必死に何かを訴えようとしていた。両手で人の首を絞めながら、何度も口を開けては閉じて、特定の言葉を伝えようとしているかのようだ。

『…ハ……ヤ……ク?』

 はやく?

――早く。

(……そう、だな)

 彼は力の入らない腕を無理に引き上げ、おでこに銃口を押し当てた。

(今、楽にしてやる)

 地上という名の地獄から、俺が解放してやろう。

 首への圧迫が増した。

 彼は最後の力を振り絞り、指先に力を込めた。

 ふいに首の力が弱まる。

 バシュッ!

 ファウストは床に倒れた。「がは」空気を求め、何度も呼吸を繰り返す。

 上からなま暖かい血が垂れてきた。一滴、二滴――それから、数え切れないほど無数に。降りしきる血の雨は、彼の視界を朱に染めてゆく。

 床に、少女の首が転がっている。その額には、小さく焼けこげた穴が空いていて、安らかな微笑を浮かべて眠っている。

 彼は身を起こし、呆然とした。

 それ、は美しかった。

 それ、は眩しかった。

 それは彼がかつて見たことのある物であり、()たことのない者だ。

 有翼の神性。

 焔の化身。

 剣を携えた裁定者。

(馬鹿な……)

 あり得ない。

 それは信仰する者にとっての幻想だ。

 天使。

 頭に浮かんだ単語を即座に否定する。

 違う。

 俺は認めない。

 神に関わるあらゆるものを、俺は捨てたのだ。

 ファウストは銃口を天使に向けた。

 燃えるような輝きを放つ瞳が、自分を焼き尽くすような気がした。罪人である自分を。

 それが数秒だったのか、それとも数時間だったのか。

 天使の姿は消えていた。

 銃を構えたままの自分が滑稽に思えるほど、目の前の空間には何もなかった。

 視線を下ろすと、惨殺死体が三つ、仲良く固まって地に伏せていた。その中の一つは、頸部が鋭い刃物で切断されていた。

 それは彼が今まで、『LOKI』の犯行と考えていた手口だった。その正体もなかば見当がついていた。

 だが。

 目の前に現れたのは、まったく別物だ。

 正反対の位置にあるといっていい。

(くそ)

 煙草が欲しかった。

 あれがないと、冷静に考えることもままならない。

(とにかく――)

 今はまず、身の潔白を証明することが先決だ。

 重いからだを引きずり、彼は内区へ続く門へと向かった。

 




Copyright (C) 2009 Sesyuu Fujta All rights reserved.