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「……終わりました」
シュミさんの繊細な手が俺の肩から離れる。
「……気をつけてください。まだ、絶対安静なんですよ」
「悪い。ちょぃとそこでコケちまってね」
施療院。俺は傷のひらいた右肩の治療を口実に、またしてもシュミさんに会いに来た。
診療室は案外狭い。二人入ればすでに手狭な感じがある。角机には包帯やラベルの貼られた小瓶、簡易的な治療器具などがきちんと整理されて並べられ、消毒液の香る密室には俺と彼女の二人だけ――
「おほほ。自業自得ですわ」
隣にちゃっかり邪魔者がいたりする。
「てめぇ。俺とシュミさんの愛の巣を邪魔する気か」
「まー、なんて野蛮! 院長センセがあんたみたいな下品なの相手にするわけないでしょこのバカ。身の程知ればよろしいですわ」
このガキ絞めコロス。
「ニーナ。少し口が過ぎますよ。……貴方も、変なことを言わないでください」
「いえ、僕は本気です」
「くっつくなバカあっちいけ!」
ニーナは俺とシュミさんの間に割り込むと、人の顔が変形するほど思い切り頬を押しのけた。
こざかしい!
「箒をもたねぇてめぇなんざ、相手じゃねぇ!」
「き〜! ムカツキますわ! このド変態!」
「なんだとこのシスコン不良娘!」
「低脳! 鬼畜! あとで脳天カチ割って差し上げますわ!」」
「……あの、二人とも人の身体で遊ぶのやめてくださいます?」
遠慮がちなシュミさんの声。
「そうですわ! その小汚い手はなせ痴漢!」
「出来るもんならやって見ろ!」
「……はぁ」
「早くはなしなさいよ! 院長センセが嫌がってるじゃない!」
「バカヤロー! 大人の恋愛に口だすなマセガキ!」
「き〜! 今はっきり殺意が芽生えましたわ!」
「上等だ」
「いい加減にしなさい!」
うぉ!?
思わず手を離してしまった。
「……貴方の診察は終わりました。早く出ていってください」
「そーよ、でてけバカ。二度と来ないで、しっしっ!」
くっ……なんでシュミさんあんな不良娘の味方するんだ! これじゃ勝負もせずに不戦敗決定じゃないかぁ!
ふっ。仕方がない。
「今日のところは出なおすぜ」
「ほほほ。逃げ帰るがいいですわ!」
あのガキ絶対絞めコロス!
復讐心を胸に秘め、俺は出入り口の扉に手を掛けた。ノブを回すと、扉が開く――
バンッ!
「先生!」
予期してたよりも遙かに勢いよく開き、扉は顔面を痛打した。
「ウチの子が! ウチの子が大変なんです!」
「落ち着いて。どうしました?」
緊迫したやりとりが耳鳴りと一緒に聞こえてくる。
「……すごい熱。ニーナ、冷たい水と布を用意して!」
「はい!」
「いててっ、なんだ一体――」
「邪魔!」
バンッ!
……わざとだ。絶対わざとに違いない。
連続で強打された顔面をかばいつつ、扉の背後から抜け出す。
バンッ!
「あら? ……。」
今、俺のほうを見て「ちッ」とか言わんかったかこのガキ。
「とりあえずベッドへ運びましょう」
バタバタと慌ただしく、患者が隣の大部屋に運び込まれる。中を覗くと、相変わらずベッドに居座る7人のオヤジたちの視線を尻目に、必死の形相の三人が忙しく立ち回る。
「衰弱が激しい。呼吸も浅い。発熱症状、頻脈――ニーナ! 部屋の窓を全て開けて換気して!」
言われたとおり、ニーナは部屋の窓を端から開けてゆくが、いかんせん数が多い。俺も手近な窓から順に、彼女の仕事を手伝ってやった。目が合うと、
「……ふん!」
ありがとう、その一言が言えないクソガキ。
「何故こんなになるまで放っておいたんです!」
シュミさんが珍しく声を大にして怒鳴っている。
「これまでも似たような症状があったはずです! そのとき、なぜすぐに連れて来られなかったんですか!!」
母親らしい女性は可哀想なくらいにおどおどして、細面の頬を歪ませ、蚊のなくような小さな声でぼそりと一言呟いた。
シュミさんの顔がさっと紅潮する。
「――お金なんかなくたって、私は人を助けます! なんのために病院があると思ってるんです!?」
母親はうなだれて、深く頭を垂れた。
蒼い顔で咳を繰り返す子供を見下ろし、独白するように呟く。
「……肺の病の疑いがあります。どちらも、この身体では助かる見込みは少ないでしょう」
母親は顔を上げ、縋るような目で医師を見た。
肺病ってのはポピュラーな疫病だ。その中でも結核はタチが悪い。本来ならばその感染力を懼れられ、隔離されて閉じこめられる。
「――血を吐いたことは?」
「え?」
「結核は末期症状だと、せきに血が混じります。この子にそのような症状はありましたか?」
「……いえ。そこまでひどい状態は、なかったと……」
「そう、よかった」
シュミさんは身をかがめて、子供の頬をやさしく撫でた。
「僕。大丈夫よ。必ず助けてあげるから」
その言葉には、医者としての決意が滲んでいる。だが、疫病ってのは治せる手段がないからこそ流行るのだ。せいぜいが十分な栄養と安静状態を保つ事だろう。(※1)
シュミさんは身を翻すと、急いで診療室へと引き返した。暫くして、手に小さな紙切れを握って出てくる。
「ニーナ、水を!」
「はい!」
紙切れがひらかれると、細かく砕かれた薬らしきものが目に入った。子供の口にその端が当てられると、サラサラと流れて消えていく。
水を運んできたニーナが、コップを傾けて薬を流し込む。患者がむせて咳をすると、落ち着いてからまたゆっくりと傾ける。
「シュミさん、それは?」
空になった紙を握りしめ、患者の容態を見守る彼女の横顔に、俺は尋ねた。彼女は俺のほうを見ることなく答える。
「クスリです」
「効くのか?」
「はい。――今までも、何度かこれで子供の命を救っています」
シュミさんの表情は硬かった。患者の子供は相変わらず、苦しそうな息で、自分の手を握った母親を呼んでいる。
(……しゃあねえなぁ)
俺はかいがいしく子供の汗を拭いてやっているニーナの手から、素早く布を抜き取った。抗議の声が挙がる前に、隣のシュミさんに尋ねる。
「”ニンニク”はあるかい?」
目をパチクリさせながら、彼女は頷いた。
「そうか。じゃ、ちょっくら火を借りるぜ?」
「待ってください! 何をなさる気ですか?」
「俺が知る限りの処方箋を施す。気休めだが、何もしねぇよりゃマシだろ」
ひとの周りをぴょんぴょん跳ねて、布を取り返そうとするニーナの襟首をひょいとつかみ、
「てめぇも手伝え」
「けだものー! いやー! 犯されるー!」
「やかましい! シュミさん、このクソガキ借りるぜ」
俺は有無をいわさず、ニーナに厨房の場所へと案内させた。