「ファウスト〜殺戮の堕天使〜」

三章 ある娼婦の死

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 目覚めると、堅いベッドの上だった。

「気がつかれましたか?」

 褐色の肌の天使がのぞき込んでくる。

 そーか、ここは天国か。

 この頬に当たる人肌のぬくもりが何とも。

「ビバ。酒池肉林」

 ばきっ。

 横から突きだされた箒が、美女の胸から俺を引きはがした。

「いってぇな、なにしやがる!?

「だまらっしゃい!」

 ビシャリ、と箒の穂先が鼻先に触れる。

「そこで倒れてたから拾ってあげたのに、オンをアダで返すとはこのことですわ! 小汚い手で院長センセに触れるなこのドスケベ!」

 声を張り上げる少女は、丁度タリと同じぐらいだった。生意気な態度できゃんきゃん吠えるところなんかがよく似ている。

「へっ、俺みたいなジェントルメンをつかまえて痴漢呼ばわりたぁ、男を見る目がねぇ嬢ちゃんだ」

「き〜っ、じゃ早くその手放しなさいよ!」

「死んでも放すか!」

 ……あら?

「傷にさわります。安静にしていてください」

 すんなりはずされて、元のベッドの上に戻される。

 よく見ると、俺の身体には包帯が巻きついている。その他に、似たような姿がちらほらと、ベッドの上からなにごとかと首を向けている。

「どこだここは?」

「図々しい上に頭まで悪いなんて、救いようのない馬鹿ですわ!」

「……お嬢ちゃん、いい度胸だね」

「ここは施療院です。傷ついて倒れていた貴方を、このニーナが見つけて、私が手当を」

「そうよ! アナタわたしに助けられたんだから、とっとと感謝しなさい」

 自己主張の激しいお子さまはほっといて。

「僕は貴方以外に興味はありません」

「き〜っ! ムカツキますわムカツキますわ」

 ぶんぶんと箒を振り回して、ヒトの脳天を狙ってくる小娘の一撃を避ける。

「やめなさい、ニーナ」

 鶴の一声。院長センセの一言で、ニーナちゃんはシュンとうなだれた。

 ざまみろ。

「私はこの施療院の院長、シュミと申します。…といっても、ここには医師を兼ねた私と助手をしてくれているニーナ以外、他に人はおりません」

「あのおっさんたちは?」

 別のベッドの上に寝かされているオヤジと目が合う。コワモテのオヤジがにぃと笑うと、並んだ歯がもれなく黄ばんでいた。

「貴方と同じ患者です」

「ずいぶん多いな。ひぃふぅみぃ…」

 むさいオヤジが7匹もいる。

「へぇ、結構繁盛してるね」

「何てことゆーのよこの痴漢! あんたお金もってんでしょうね!」

「ニーナ」

 ぎくりとして、ニーナは動きを止める。

「今日の診察の準備をしてなさい」

 ぷぅ、と頬を膨らませて、ニーナは『診療室』と札のかかった扉へ歩いていった。

 しかし途中で立ち止まり、手にもった箒を振り返りざまにぶん投げた。

――ストライク。

 舌を出すと、素早く身を翻して扉の奥へ消える。

「……くっくっく、お嬢ちゃん、いいコントロールしてるじゃないの」

 たらりと垂れた鼻血を自覚しつつ、顔面にぶつかった箒を力強く握りしめる。

「……すみません。悪気はないんです」

 困ったように柳眉を寄せて、白衣の女医さんが健気にフォローをいれてくる。

「はっはっは、わかっていますとも、僕はジェントルマンですから、あれほど根性ひねくれ曲がった反抗期暴走不良娘だろうと子供に手は出しません」

「あの子、以前はああではなかったのです」

 ニーナの消えた扉を見ながら細いため息をつく。後ろで束ねた長い黒髪がはらりと揺れた。

「昔は面倒見のよい、素直ないい子だったんです。妹と二人でよく、この施療院のために尽くしてくれました」

 褐色の肌は、南方系、もしくは東に広がる砂漠地帯の人種によく見られる特徴だ。日に焼けた肌は健康でいて張りがあり、白い白衣との絶妙なアンバランスさがことさらエキゾチック。

 めくるめく小麦色の世界に僕はもうメロメロ。

「……あれからもう、二年も立つのに」

 切れ長の瞳が伏せられて、悲しみのオーラが彼女を包む。

「お金なんかあったところで、あの子が生き返るはずもないのに」

「……確かに、失われた命は二度と元に戻らない。だからこそ人は、たった一つのそいつを大事に守って生きていける。それがこの世の法ってやつさ」

 驚いたように、シュミがこちらを振り返った。

「二つも三つもストックがありゃ、人の生は(おろそ)かになる。もう一度がないからこそ、必死になれるのさ。人間万事塞翁が馬、てね。今日生まれた命が明日死ぬこともある。今俺が生きてるのだって、貴方のような親切な方に拾ってもらわなければ今頃どうなってたことか」

「いえ、そんな……」

「そんなわけで僕と一緒に新たな命を育みませんか?」

 すりすり。

 ああ、シュミさんの手。柔らかい……

「……やめてください」

 掴んだ手は振り払われてしまう。

「貴方の言ったように、人の命はたった一つだけ。それを救うのが、私たち医師の使命です。でも、この街では理不尽な死が多すぎる」

 ……ガード堅いなぁ。

「それに、生き返らせる方法があるのなら、私だって……」

 俺の手から逃げ出した拳が、彼女の胸でかすかに震えた。

「そいつは違う。死んだ人間は二度と生き返らせちゃいけない」

「……あなたは、きっと外から来てまだ間もないのね。何もわかってないから、そんな無責任なことが言える」

 ……ずいぶん絡むな。

「気になるね。何があった?」

「貴方は翡翠という宝石をご存じですか?」

 翡翠、ね。

 俺は記憶をさらう。

 覚えがある。大陸のさらに東の果てで採取される鉱石だ。不純物の占める割合で色彩が変わり、赤青緑とその色は多種多様。一般に取り引きされるのは(みどり)のものが主で、純粋な翡翠は透明度も高く、価格も比例してつり上がる。『東洋のエメラルド』。その俗称に違わず、なめらかな輝きを放つ宝石だ。

「そいつがどうした?」

 冷たい風が吹き込んできた。

 側にあった窓が開く。

「二年前、この街である奇病が流行りました。健康に生活していた人が、突然胸を押さえて倒れる。そして、翌日には息を引き取る。そんなことが、何度も起こりました」

 シュミは、窓から遠くを見ていた。景色を見ているというより、記憶の中の光景を見ている。そんな感じだ。

「見たこともない症状でした。彼女たちは苦しいと訴えることさえしなかった。ただ、凍ったように固まったまま、息だけはしている。そして気づくと、止まっている。発祥すると例外なく死んでしまう、残酷な病でした」

 外でニーナがふくれっ面のまま掃除していた。俺に投げつけてきた箒とうり二つの箒を使って掃いている。

「為す術のないまま、幾日も過ぎていきました。そんな折り、奇妙な噂を耳にしました。流行病で亡くなった人の、心臓が、高価な値段で取り引きされていると」

 窓から差し込む陽光が、シュミの顔に光と陰を落とす。陰の部分が一層濃く見えた。

「悪質な冗談だと思いました。けれど、何か手がかりが欲しかった。一刻も早く、原因を究明し、この不治の病を止めたかった。私たちは、解剖を行いました。そして結果は――」

「その通りだったと」

「……ええ」

 窓から外を眺める。薄汚れた街だ。

「『翡翠(エメラルド)の病』。そう囁かれるようになるまで、それほどかかりませんでした。街は、悪夢の中でした。道ばたに倒れようものなら、こぞって奪い合いが起きる。……そこら中に、胸をはぎ取られた死体が転がっていました」

「そいつは……シュールだね」

 道ばたに転がった死体の山と、それにたかるぎらついた目をした老若男女。手にはてんでバラバラだが一様に鋭く研がれた刃物。一大殺人鬼の横行(ブーム)だ。スプラッタな光景が容易に想像できる。

「疫病の被害は拡大しました。その裏で、翡翠が高値で売られていく。誰もが、この混乱が終わることを強く望みました。そんなとき、ようやく城が動いたんです」

「『城』ってのは?」

 生憎この国の情勢にはまだ疎い。この辺で少し、情報収集に励む必要がある。

 シュミは、ふと立ち返ったように俺を見た。

「……そうですね。まだ時間がありますから。暖かいお茶をいれてきましょう」

 




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