「ファウスト〜殺戮の堕天使〜」

三章 ある娼婦の死

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「!」

 それは、あまりに突然の出来事だった。

 地中から噴き出した閃光が、目の前を遮った。一つではなく、二つ、三つ、四つ…次々と現れてはタリの中心に据えて、天高く吸い込まれてゆく。

 複数の光の柱は、一人の少女を取り囲み、強固な柵となって立ちはだかった。

(くそっ、なんだってんだ!?

 不測の事態。

 この場合、逃げることが最善の策だ。体制を立て直し、状況を正確に把握してから再度突入を試みる。対抗手段を用いた迅速な制圧を目的とすべき――

「な、なによぉ、なんなのよぉ!」

 だが、そうもいかない。可愛い女のコを見捨てていけるほど、俺の男は廃れちゃいない。

「待ってろ、今助けてやる!」

 手を伸ばす。だが――

 バチバチバチバチバチバチッ!!

 白い光に触れただけで、雷に手を喰われたかのような激しい痛みに襲われた。あまりの激痛に引っ込めた手は、外傷はないものの、神経が麻痺して指先一つ動かせない。

(こいつはちっと、まずいかな)

 ぷらん、とたれ下がった右手を見つめ、ぼやく。

 どういう仕組みか知らないが、これは捕獲用の罠だ。触れた者をその場に足止めし、外部からの干渉も許さない。

「タリ、そいつにさわンなよ!」

 忠告し、俺は精神を集中するために目を閉じる。

 霊的中枢(チャクラ)とはつまり、人体に張り巡らされた精神のネットワークだ。幾筋もの経絡と気穴で構成され、そこを『気』が流れている。この流れが滞ることで、人の身体は病気や不調、果ては死までが引き起こされる。

 即ち――健全な肉体を望むには健全な精神を宿せ、と。

(さて)

 まずは右手の自由を取り戻す。

 気の滞りは陰虎の仕業だ。陰虎とは陰の気。異常な気の澱に棲み憑く妖魔だ。こいつを払うには一度内部に取り込み、君火に当てて陽龍へと昇華させる必要がある。

 だが、この陽龍もまた危険なもの。留めておけば今度は内側から宿主を灼き殺す。

 如何にしてこの陽龍を仕留めるかもポイントだ。

 陽龍は経絡を巡り、霊的中枢を陽の気で満たしてゆく。その結果、体内に満ちた陽気で肉体の神経が活性化され、病状の治癒や細胞の増殖を助ける。怪我や病気の回復が速まるのだ。

――ピクッ。

(よし、動いた!)

 右手の治癒を確信し、霊的中枢を陽龍退治に動員する。巨大な蛇に無数の兵隊が群がってゆくイメージ。やがて蛇は殻に閉じこめられ、喇叭を吹き鳴らす兵士たちに運ばれて、内宇宙の彼方へと放り出された。

(上出来だ)

 ゆっくりと瞼を開ける。目の前で二つの拳を握り、開いてみる。問題ない。五つの指全て自分の意思で動かせる。

(……問題は、ここからだ)

「いやあああ! 助けてッ」

 状況は最悪だった。

 タリの身体が、足下から凄まじいスピードで硬質化、変色していく。

「考えてるヒマはネェか」

 だが、迂闊に飛び込めばさっきの二の舞だ。

「へっ――どうにかならァ!」

可能性の極限値(ポテンシャル)』!

 (タオ)秘術の応用形。霊的中枢(チャクラ)の一つに気を集約し、その場所に対応した身体能力を極限まで引き出す。

 例えば――足の霊的中枢を強化すれば、脚力が特化され、突発的な加速力『駿足』が得られる。

(これなら――)

 あの忌々しい光を突っ切れる!

 身をかがめ、尽尽(ジンジン)と熱を放つ両足で地面を蹴った途端、凄まじいGの洗礼を受ける。

 本来、人の能力は無意識の内に制限され、どれほど鍛えようと潜在能力の3%を超えて発揮できない。それはむしろヒトの本能にあらかじめ組み込まれた自己防衛機能の一つだ。

 もし仮に100%の力を引き出せたとしても、生身の身体は数秒のうちに四肢は千切れ骨は砕け血をまき散らしつつあの世逝きが確定する。人の身体は100%の潜在能力に対処できるほど頑強ではないからだ。

 だが、それを局所的に且つ或る瞬間だけに限定して引きだしたならどうだろう。100%には耐えられなくとも、90%なら? それで駄目なら8070……

 ようはバランス。そしてそれを可能にするのが『道』。眠れる力を引き出す東洋の秘術だ。

 バチッ、と大きく音が弾け、光の半ばまで食い込む。

(さすが……一日二回はシンドイな)

 しかしこれ以上は、強力な力に押し返されて進めない。

「くっ――」

 無理かっ!

「そッ……たれがぁ!」)

『駿足』を解除(キャンセル)

 腕の霊的中枢に切り替える。丸太のように腕が膨れ上がり、青黒く変色する。鋭い爪の映えた手が、物質でない光を掴む。

『鍾馗の双腕』。鬼の力がとり憑き、凄まじい膂力を発現する。

 しかしこれはやりすぎ(オーバースキル)だ。(タオ)の連続使用は術者を蝕み暴走させる。顔中に血管が腫れ上がり、全身の骨格が悲鳴を上げ、方向の定まらない気が出鱈目に放出される。

「おおおおおおらぁああああァァァ!」

 ばちんっ! 光の柵が、鬼の手により無理矢理こじ開けられる。

 怯えた瞳と目が会う。

 すでに半分以上、石化に侵されている少女にむけて、届く限り手を伸ばす。

「つかまれ・タリ!」

 思うように腕が動かないのだろう。次第に昏い色を帯びてゆく両腕は、鉛の重石かなにかのように本人の意志に逆らう。

 パキパキという厭な音が耳に残る。

「早く――」

 不意に、身体が軽くなった。

 ふわりと空を飛ぶ――次の瞬間、地面に激突している。

(弾きだされた!?

 がばと身を起こす。

 全身の軋むような痛み。それに付随する嘔吐感。そんなもの二の次だ。

「タリ!」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった泣き顔。

 自分に向けて差しだされた手を、掴むことができなかった。

「くそっ、この」

 無茶な道理は通らない。限界以上の力を引き出された霊的中枢は灼けつき、その影響は肉体にフィードバックする。平衡感覚すら掴めず、まともに立つこともできない。

「タリ!」

「ゃだ……おいてかないでよぉ……」

 まずい。

 目の前にいる自分の姿すら見えていないのか。

「やだよ……もぅ……ひと…りは」

「しっかりしろ! 俺はここにいる!」

「お…にぃちゃん……」

 頬を伝った涙が、地面にぶつかって砕けた。

 それを合図に、光の柱が輝きを増した。白色光が次第に膨らみ、やがて毒々しく赤みを帯びる。互いが互いを巻き込み、うねり、ひしゃげ、螺旋のように渦を巻き、どこまでも昇ってゆく。

 少女の姿は異様な竜巻に呑み込まれ、確認できない。

「タリ! 返事しろ!」

 そのとき、突然奇妙なものが目に飛び込んできた。

 ……羽根?

 なんだこりゃ。見ると辺り一面似たような金色の羽根が降っていた。まるで黄金色の雪のようだ。掴むと、僅かに柔らかな感触を残して金色の粒子が飛び散る。

(次から次へとまぁ、大仰な手品だことで)

 胸くそ悪いイタズラだ。

 黄金色の羽根はくるくる回りながら、竜巻の渦に吸い込まれてゆく。赤い渦にキラキラとしたまばゆい煌めきが混じり、その中で別の光が斜めから、一直線に駆け抜けた。

 ように見えた。

 紅い竜巻がふっ、と消えた。その中から動かない少女が現れる。ついさっきまで、夜の街を飛び跳ねていた柔らかな雌鹿は、もの言わぬ固い石像となって顔を歪めていた。

 魂を入れる前の石像の乙女(ガラリア)のように。シュルレアリズムに満ちた恐怖の表情を象って。

「……邪魔が入ったか」

 襤褸切れを纏った不気味な輩が、ゆらり、と暗闇から滑り出た。目深くかぶったフードのせいで顔の造作はわからない。

「…誰だテメェ」

 暗がりに身を潜めたまま、こちらに向けて薄く嗤う。

「ほう。人払いの結界、通じないとは」

「…こいつはテメェの仕業か」

「成る程。先ほど奇妙な技を使ったな。あれのせいか?」

「答えろクソヤロウ」

 体力を総動員して、ふらつく足を奮い立たせる。

「返答次第じゃ生かしちゃおかねぇ」

「人の哀れなところは、現状を把握せぬことだ。感情という蛇足を持つが故、的確な判断すら下せん」

YESととるぜ」

(タオ)』は品切れだ。なら物理的な力に頼る。

 槍よりも長い射程(リーチ)、剣より速い連撃。硝酸カリウムと硫黄の発熱反応を効率よく働かせる鉛の死神。腰からぶら下げたそいつを、俺はこう呼んでいる。

運命の女神(パルツェン)』ってね。

 ホルスターから引き抜き、すかさず安全ピン(セーフティー)をオフ。回転式連射銃(リボルバー)だ。六発のうちの三発をくれてやったが、最初の一発で足がふらつき、二発はあさっての方向へとそれてしまう。

 だが、その一発は間違いなく奴の心臓ど真ん中だ。

「無駄なことを」

 スッと手のひらを差しだす。丁度弾丸の軌道上。

(腕を捨てて急所をかばいやがった!)と思った瞬間、凶弾はその手のひらの前でぴたりと止まった。

 ……おいおい、こっちにゃタネも仕掛けもネェぞ?

「君はいち早く逃げるべきだったのだよ。最初の時に」

 宙に停止したままの弾丸を軽く弾く。

 右肩に焼けつくような痛みが走る。

「大人しくしていろ」

 肩を押さえる俺の脇を通り過ぎ、襤褸切れを引きずってタリへと近づいてゆく。

「……ぷりまていあるのままか。ぷしゅけが無事なら望みはあるが」

 手をかざすと、忽然と金糸で編まれた背表紙の本が現れた。支えもなく浮かんだまま、パラパラとページがめくれていく。

「――朋友なる角或る獣、王錫携えし黒き(サバトの)王よ。我に答えよ。四重の軛に囚われし躯は再び闇を欲する。穢れた血で禊ぎをし、ひねれた角で腑を裂き、背教者の叫びと共に唸れ。我は願う。汝が罪持て我が身を起こさんことを願う――……」

 パタン、と本が閉じた。そのままふっ…と空間に消える。

 つまらなそうな声が聞こえた。

「やはり、すでにぬけがらか」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに。

 ピシッ。

 それは小さな崩壊の音だった。亀裂は瞬く間に全身を駆けめぐり、小柄な身体を貪り食った。足首、ふともも、胸、右腕、左腕、細い指――少女の身体がゆっくりと壊れてゆく。

 ぐらりと首が斜めに傾いだ。どさりと地面に落ちて、雪の上を転がる。まだ幼い少女だ。僅かな雪に濡れた頬が、鈍い色から土気色へと戻っていく。

 肌の色が――

 その瞬間、ぶちぶちと千切れるような音ともに、生暖かいシャワーを浴びた。白い景色が斑に染まる。肉の破片が無造作に辺りに散らばり、吐き気を催す臭気が一斉に立ちこめた。

 この臭い――手品なんかでは絶対ない。

 くくっ。

 笑いやがった。

「素晴らしい。肉体の崩壊は何度見ても楽しいものよ。矮小な個とはいえ、散り際だけは格別だ。実に心が揺さぶられる」

 陽気に語りながら、肉塊が最も多く散らばる場所へ進んでゆく。そこからなにかを拾って、月明かりにかざして見せた。キラリと光る。

「薄いな……些か食欲に欠けるが、良しとしよう」

 そういうと、手に持っていたものを口に含んだ。カリコリと固形物をかみ砕く音がする。

「……しかし、途中で儀式を中断させるとはこざかしい真似を。おかげで余計な雑霊を喚び寄せる羽目になる」

――ぶつぶつうるせぇ。

 腕を跳ね上げ、指を絞る。『幸運の女神』が吠えた。

 すんでの所で避けられた。

「まだいたのか?」

「待ってろっていわれたんでな」

 銃口を突きつけたまま、すっくと立ち上がる。

「ほう。まだ動けるか」

「ああ。すこぶる調子がいいぜ。痛みなんか屁とも感じなくなっちまった」

 右肩から流れでる血は、止まる気配がない。むしろじわじわと赤い範囲を広げている。それでも、あれほど感じた激痛が今はカケラも感じない。

「……雑霊(ハイエナ)め。手頃な媒介にとり憑いたか」

「ハイエナだぁ!? ぶっ殺すぞ」

 傷を負っていない左腕で、しっかりと狙いを定める。

「脳天と心臓に一発ずつ。イカサマできるならやってみろや」

「最下級の霊等程度が我に逆らうか。面白い」

 侮蔑の言葉と同時に銃口から弾が吐き出される。

 キンッ――

 二つの銃弾は見えない壁にぶつかった。

 だが残念。そいつはおとりだ。

「ヒャッハァ!」

 その隙に距離を詰め、本命の一撃。突きだした拳で顔面にジャストミート――

「帰依よ」

 横殴りの衝撃が脳を揺さぶる。

 がくん、と全身から力が抜けた。身体から何かが強制的に締め出され、声にならない叫びをあげる。

――オオォォオオォォォォォ……

 冷たい感覚が体をすり抜け、どこかへ消えた。

 右肩に激痛が走る。麻痺した感覚が復活し、鋭い痛みが鮮明に蘇る。生きていることの証明書、素晴らしき苦痛だ。

「ほぉ。なかなかどうしてしぶとい。悪霊に精神を喰われずすんだか」

 勘に触る嗤い声。

「君は強運の持ち主らしい。無駄に助かった命だ、せいぜい大事にするがいい」

 俺は奴の足を掴んだ。

「……しつこいな」

 簡単に振り払われる。

「待……てよ」

「その状況でその台詞か。的外れだよ。せめて『助けてくれ』とか『見逃してくれ』が相場だろう?」

「命乞い、なんざ……しねえ」

「可愛くないな。陳腐なプライドで一つしかない命を失うことは、浅はかだと思わんか?」

「あの子にゃ、未来(さき)があった」

「贄のことか? 実に残念だよ。扉を開け損ねたせいで今までの苦労が水の泡だ。虫ケラ一匹の命では割に合わない」

「テメェ……許さねえ」

 奴の目が細められる。

「ほぉ。ではどうする」

「ぶっ殺す」

 ぷッ――

「ぷはははははははははははははははははははははははッ――はははッ――はぁはぁ…なんだって? もう一度言ってくれたまえ」

「ブッコロス」

「あはははははははははははははははははははははは――傑作だよ! 最高だ。その状態でその台詞か。くくく。気に入った」

 こちらに向き直ると、含み笑いをこらえながら喋る。

「一つゲームをしようじゃないか。間抜けなハンス君?」

「……俺は、ハンスなんて、名前じゃねぇ」

「いいや。君はハンスだ。なぜなら現に這いつくばって命乞いをしている」

「……ざけ……な」

賭金(チップ)は君の命。負け(LOST)は死だ。君が勝てば君の探しているものを差し上げよう」

 襤褸切れから伸びた手が、ぱちりと指を鳴らす。さっきと同じように、今度は赤い本が現れる。

方法(ルール)は簡単だ。僕は君に機会(チャンス)と猶予を提供する。君は僕を捜しだし、仇討ちでも何でもすればいい。願ったりだろう?」

 パラパラとページがめくられ、ある場所でぴたりと止まった。

「楽しませてくれ。ここからは君のための舞台だ。僕は道化を演じよう」

 奴は人差し指を立てると、俺の右肩の傷口へ迷わず突っ込んだ。鋭く伸びた爪が肉を抉り、たまらず叫ぶ。

「けれど早くしろ。ゲームにはタイムリミットがつきものだ。もたついてると先を越されてしまうぞ」

 グィ、と顔が近づいて、囁くように呟いた。

「残る贄3人。全て殺された時点で時間切れ(ゲームオーバー)だ」

 




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