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夕暮れ。
墜ちる日差しは赤い光輪を放ち、あらゆるものを朱に染め上げる。雲の色、街並み、人の顔。一日の最後の輝きは、華々しく街を覆いつくし、やがて潮が引くように失われてゆく。
それは一時の瞬間だからこそ、美しいのだろう――と、ファウストは思った。
「それがねメロウちゃん、また来てね❤ってゆーんですよぅ、たっはっは」
先刻から、間抜けな声が横から響いてくる。
「でね、その子がゆうには、小さくて可愛いワタシの王子様❤なんって。うひゃひゃひゃひゃ」
そういって、こちらの背中をばんばんと叩いてくる。
ふうううぅぅッ。沸き上がる不機嫌の衝動を煙と共に吐き出す。
「彼女、ぼくに気があるんですかねぇ。むふふふふふふ」
――カモが一匹、網に掛かっただけだ。
マグダラの館は、金さえ払えば女が抱けるわけではない。店に通った回数と支払額、娼婦の好感度etc.が一定の上限を満たすことで、ようやく上客と認められる。それまではまめに貢いでポイントを稼がねばならない。
入れ込んだ貴族がスラムの路地裏まで落ちぶれたケースもざらにある。人を破滅させるほどに、彼女たちには魔性の価値がある。誘惑の術に長けた娘は、男の心を意のまま操る。
まるで雄を喰らう、女郎蜘蛛のように。
「それで、いくら払ったんだ?」
ファウストは、機嫌良く前をいくワーグナーに尋ねた。
「ああ、お金ですか、それがねぇ、びっくりしないでくださいよ」
思わせぶりな口調で、ぴっ、と指を二本立てる。
「なんと! ファウストさんの名前でツケときました。あはは」
がしっ!
気づくと、ワーグナーの胸ぐらを掴みあげている自分がいた。
「なんの冗談だ」
「やだなぁ、冗談だなんて。ぼくが嘘つくように見えます?」
「冗談だといえ」
「そんなに照れなくてもいいじゃないですか。ハイ! コレ請求書」
突きだされた紙切れを斜め読みして、ぴき、と額に十字の血管が浮かぶ。
「……死にたいんだな?」
「ふふふ。ぼく、知ってるんですよ。ファウストさんの秘密」
「……なに?」
ファウストは手を引っ込めて、ワーグナーを見下ろした。
「メロウちゃんから聞きましたよ。地下のV.I.P.ルームのこと。なんでも、貴方専用らしいですね。いったい何があるんです?」
「ほう、馬鹿かと思ったが、それなりに目はしが利くな」
「ふふ。当然でしょう。でなければ”剣帝”様からあなたの監視に派遣されたりしませんよ」
…………。
「あれ? ぼく、なんか言いました?」
「いや」
やはり。
気づいてはいた。わざと頭の中から締め出していたのだ。だが、これで認めざるを得ない。
”白城”が今になった動いた理由。それは、例の噂が原因だろう。
続発する猟奇殺人に、住民の恐怖心は増加の一方を辿っている。その唯一の容疑者と目される人物、それがこの自分――魔術師ファウスト。
配下の者が殺人鬼に墜ちたとなれば、”白城”の面子は丸つぶれ、それ以上に恐ろしいのは、外区住民の暴動だ。二年前のことで膨らんだままの不信感が破裂し、一斉蜂起でも起これば、外区に取り囲まれた内区に逃げ場はない。
もしものとき、自分を餌にたてて始末する気かもしれない。
歯ぎしりするファウストをみて、ワーグナーが下から不安そうに尋ねてくる。
「ほんとに何も言ってないですか?」
「いっとらんと言っとるだろう!」
怒鳴り声に、建物の影までワーグナーが移動する。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないですかぁ。お金はちゃんと払いますよぅ」
「当たり前だッ」
さらに遠くへ移動したワーグナーを見て、ファウストは声を抑えた。
「……さっさと戻ってこい」
「さッすがファウストさん! 心が広い」
「誰が許すと言った」
カチャリ。冷たい鉄の感触が、こめかみに当たる。
「あの、これ?」
「遙か南方で作られた銃という飛び道具だ。鉛の礫を装填し、背後の撃鉄をたおせば準備完了。僅かな力で引き金を引くだけで、標的の頭が柘榴のように爆ぜる」
赤い顔が蒼く変わった。
「痛いと感じる暇もない。『カチャ』『パンッ』『ドサッ』と三拍子であの世行きだ。当たり所が悪いと簡単に死ねず、暫く血を垂れ流して地獄の苦しみを味わうが、まぁ、細かいことだ」
大きな眉毛が八の時にへこむ。
「安心しろ、楽なほうで逝かせてやる」
「ひぃぃぃぃぃぃッ!」
脱兎のごとく、ワーグナーは一目散に細い路地を駆け抜けていった。出口のところでスリップして転んだが、まぁ、細かいことだろう。
時計台の鐘が鳴り、五時を告げた。拳銃をぶら下げたまま、ファウストは辺りを伺う。
ワーグナーが落としていった洋燈以外に灯りはない。夜が来て辺り一帯が闇に閉ざされたなら、それこそ襲撃者の絶好の的だ。ここなら人気もなく、邪魔も入らないだろう。
彼は再び拳銃を持ち上げ、後ろに銃を向けた。
「いつまで尾けてくるつもりだ」
「ありゃ。気づかれてたか」
夕日を背に、ふらりと人影が現れる。相変わらずのにやけた表情。ピアス代わりのマスコットがキラリと揺れる。
「おばんです」
「……貴様、何者だ」
「それにしても寒ィよなぁ。酒でも飲んでなきゃ、凍えて死んじまうぜ」
パンッ――
拳銃の弾は男の頬を僅かに逸れ、壁に亀裂を走らせる。
「質問には適切に答えろ。俺は機嫌が悪い」
「……ΔMF-310――通称『メフィスト』。南部で造られた銃の中じゃ、希少価値のついた旧式。今じゃ冴えない単発式で、マニアにゃヨダレの一品だ」
「…………(カチャ)」
銃身の中程を折り、そこから空の薬莢を落とす。雪の上に埋まった薬莢を、ファウストは踏みつけた。
「そいつにゃ致命的な欠点が三つある。その一。単発式は速射性が望めない。その二。旧式は射出時の反動が大きく、命中率がすこぶる低い」
コートのポケットに手を突っ込み、弾丸を探す。できれば、黒いやつがいい――
「その三。ただし破壊力は抜群だ。そのため製造当初は荒くれどもが競って買い漁ったそうだが、暴発を繰り返してたったの二年で製造中止。以来、その銃をもつ奴ぁはこう呼ばれた」
薬室に装填完了。銃身を戻し、ピタリと目の前のふざけた男の眉間に照準を合わせる。
「いつか銃に命を喰われる、”生贄”野郎ってな」
「長い講釈、ご苦労」
カチリ、と撃鉄をおろす。
「さっさと質問に答えんかクソ餓鬼がぁ!」
「ちっちっち、落ち着けよ、おっさん。血管ブチ切れて脳味噌まで飛びだしちまうぞ」
マスコット男は指を左右に振りながら、近づいてくる。
「こっちも聞きたいことがある」
「こっちが先だッ」
「まぁまぁ。俺も急がしい身でさぁ。早く帰ってホモ相手の代わりに、飯炊き・洗濯・便所掃除を山ほどこなさなならんのよ」
男は十歩ほどの距離を確保して止まる。
「あんたの奪ったモンを返してもらいたい」
男の顔から笑みが消える。
「本国から追いかけて見りゃ、こんなところでヒエログリフにお目にかかるたぁな。探したぜ」
「何のことだ?」
「とぼけんな。素直なほうが身のためだぜ。あんたがこの騒動起こしてんだろ? 噂の魔術師さん」
「だから何のことだ」
「『死者の書』を返せ」
剥き出しにされた殺意が、一陣の風と共に吹きつける。外気の熱がさらわれ、急激に零下へと転化したようだ。青い瞳に睨まれ、ざわりと鳥肌が立つ。
「そんなものは知らん」
事実、彼はその題名に聞き覚えはない。『死者の書』という限り、死人について書かれた本なのだろう。脳なしや不死人について書かれた書物は幾らかあるが。何年も前に手に入れたテクストだ。いずれも、人に狙われるような品ではない。
「ちっと痛い目見なきゃわからねぇか」
「痛い目だと? どちらの台詞だ」
グリップをきつく握りしめる。奴の命は今、こちらの手の内にある。
「講釈の続きをしてやろう。この銃は俺なりに改造した特別製でな。鉛玉の他に、規格外も使用可能だ」
「へえ、そいつは面白い」男は不敵に笑った。「見せてもらえるんだろう?」
「ああ。望みどおりな」
精神を集中し、知覚を無にする。研ぎ澄まされた五感は次第に消え失せ、鮮明になった意識だけが底にほうへと沈んでゆく。
どっぷりと浸かった暗闇の果てに、金色の門が見える。門には一匹の蛇が巻き付き、紫色の煙を吐き続けている。扉は固く、閉じられていたが、触れると生き物のようにどくんと波打った。六芒の門が口を拓き、真理が雪崩れ込んでくる。
『其は泉。際限なく湧き出す想像の源』
『其は塊。七色の光芒を放つ原初の観念』
『其は渦。諾々たる言霊を繋げた蛇』
混沌の濁流の中から、慎重に言葉をすくい上げ、呪文として口に出す。銃身に刻まれた六芒の紋が発光し、発生した魔力の磁界で、バチバチと蒼い光の雷子が跳ねた。増幅した魔力が出口を求め、好き放題に暴れ回る。
「ヒュゥッ!」と、男は喝采を挙げた。「あんた、大道芸人が向いてるぜ」
ファウストは軽口を無視し、視線を固定したまま「”照準”!」と叫んだ。
魔術言語で発声した言葉は、常人には理解できない。だが、現実に干渉する。空気がざわめき、前方に向けて魔力の通り道が出来上がる。
「”装填”――”火球”!」生身のときと違い、この『魔法銃』を介して放つ魔術は数倍の威力に跳ね上がる。
雷子が飛び火し、側のゴミ山ががらがらと崩れた。蒼い火花は空気中にも伝染し、放置された洋燈に取り憑いた。硝子の密室で、赤い舌がのたうつ。
「死に際のセリフは考えたか」
蒼い稲妻をまとい、ファウストが語りかける。男はニッと余裕の笑みを浮かべ、肩をすくめた。
――馬鹿が!
ファウストは躊躇無く引き金を引き、同時に装填した呪文を発動した。
「”開放”!」
蒼い稲妻が銃口へと収縮し、巨大な球体が生まれた。球体はうなりながら紅く燃え、弾丸のスピードで勢いよく吐き出される。
「くっッ」反動で、両腕が大きく跳ね上がる。のけ反った拍子に足を滑らせ、そのまま白い地面の上に背中から激突した。浅い積雪は衝撃を吸収せず、痺れる背中に思わず涙すらこぼれそうになる。
つくづくツイてない日だ。雪まみれになって悪態をつく。
痛みを押さえて立ち上がる。
目前に広がる光景は、しかし彼を満足させてくれた。シュウシュウと大量の雪が気化して立ち昇り、混じった砂埃が夕日を受けて美しく輝く。
壮快な気分だ。
(奴は――)
左右は壁、出口は二つ。その一つは自分の背後にある。唯一の逃走経路だが、最後に見た瞬間、奴は逃げるそぶりも見せなかった。余裕の面が癪にさわったが、あの距離では避けきれまい。
どのみち、この煙が晴れればわかることだ。
銃を二つに折り、灼けついた薬莢を排莢する。黒い塊が音もなく滑り落ち、地面に触れると硝子のように砕けた。
通常弾を装填しなおしていると、不意に手を叩く音がする。
「ブラヴォ! 愉しかったぜ、Mr.Magic」
声が終わらないうち、彼は自分の背後に銃を向けた。
同時に撃鉄も下ろす。
「貴様、どうしてそこにいる!」
「タネを明かしちゃつまらねぇ。奇想天外摩訶不思議、それが手品の醍醐味さ」
ファウストが塞いでいたはずの方向に、男は立っていた。僅かに服が乱れているものの、外傷はなく、無傷――
「馬鹿な!」
ファウストは叫び、再度引き金に手をかけた。すると、
「遅ェ」
声は下から聞こえた。
とん、と脇腹に拳が当たる。見上げる顔がニッと笑った。
気づいたとき、ファウストは壁に身体を預け、血を吐いていた。木片や古びた布、錆びた鉄屑などに埋もれ、息を吐く。脇腹が鋭く痛み、まるで鋭い歯に内蔵を食いつかれているようだ。
ぐふっ
あばらが折れている。
「殺しゃしねぇ。『死者の書』の在処を聞くまではな」
「……何を、した」
「同じセリフを二度いわせんな」
顔に足が乗ってくる。冷たい靴底を押しつけられ、口を開くこともできない。
「なぁ。俺、暴力は嫌いなんだ。任務とはいえ、一般人に危害を加えるなぁ、心が痛む」
ぐりぐり。
――言葉と行動が正反対だクソ餓鬼。
「あれは世にでちゃならねえ代物だ。何者もこの世の法を侵しちゃならねぇ。そうだろ? おっさん」
ぐりぐり。
――図に乗るなよクソ餓鬼。
遠くから人の声が聞こえた。それも複数。騒ぎを聞きつけたのか、こちらに近づいてくる。
「ちっ、誰かきやがった」
足がはなれる。ファウストは泥まみれの顔を手で拭った。
直後、飛んできた足が横凪に頬を直撃する。
「今日はほんの挨拶代わりだ。次に会うときゃ、『死者の書』を頂く」
男は背を向け、「チャォ」ふざけて手を振った。夜の帳が訪れる路地の奥に、鼻歌を唄いながら去っていく。
「こっちだ、急げ!」
声が近い。ファウストは痛む身体にムチ打ち、がらくたの中から起きあがった。
――”時の輪”の奴らだろうか。
”LOKI”討伐のために派遣された部隊が、この辺りで網を張っていてもおかしくはない。しかし、普段から何かと突っかかる連中だ。今の姿を見て、助けるどころが馬鹿にされるかもしれない。
大勢の足音が、路地の手前で止まった。
「おい……」
「こいつは驚いた」
「ずいぶんとへばってらぁ。へっへっへ」
凶暴さを剥き出しにしたならず者が揃っていた。どう贔屓めに見ても、騎士のツラには思えない。
スラムの連中だ。
ファウストは素早く身を翻した。
まだ死にたくはない。