「ファウスト〜殺戮の堕天使〜」

二章 マグダラのマリア

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 荒い息。暗い夜道。痛む脇腹を抱え、入り組んだ路地を駆け抜ける。

 明かりの少ないスラムの路地。あらゆるところから人の声と足音が聞こえる。自分を追ってきているのだ。

 濃厚な闇が影をおとす一角に、彼は潜り込む。ぼんやりと霞む意識の中で、ひりつくような痛みだけが鮮烈に響く。

 このままでは長くもたない。

 自覚しているが、どうすることもできない。

 因果応報という言葉が頭に浮かぶ。

 すでに日は沈み、月明かりが支配している。遙か頭上から淡い燐光を放つ月は、地上のことなど無頓着で、のっぺりと青白い表情で地上を見下している。

「いたか」

「いねえ。ヤロォ、どこ行きゃぁがった」

 気色ばんだ男どもの交わす声が聞こえる。

 闇に息を潜めたまま、じっと遠ざかるのを待つ。

「本気で探してんのか? あの悪魔野郎(サタン)を殺す絶好のチャンスなんだぞ!」

「うっせぇ! コッチに来たなぁ確かなンだよ」

 近くにいるのは二人だけのようだ。壁越しに聞こえる声は、若いちんぴらと中年男のダミ声の二つ。

「フカシこいてたら承知しねぇぞ!」

「ああ? ならテメェで探せよ」

「ガキがナマ言ってんじゃねぇぞ!」

「やんのか? 秒殺だよコラ」

 ちんぴらが素早くナイフを取り出し、斜めに構えた。その瞬間、赤い煌めきに目を射られ、咄嗟に体をひねる。

 何かに当たった。

 カンッ……

 倒れた棒きれが親の仇に見える。

「…オイ、今の」

「誰だ、そこにいるなぁ」

――まずい。

 壁に身を伏せ、一寸の音も立てないよう全身の神経を集中する。

 松明の明かりが闇を払ってゆく。細い路地を浸食してゆく赤い光を、まんじりとせず見つめる。

「何か見えっか?」

「いや」

 物陰に隠れている彼の位置は、男たちからは死角になって見えないはずだ。

「壁がある」

「行き止まりかよ」

「…………」

「ケッ、先いくぜ」

 今、瀕死の状態で二人も相手にするのは得策ではない。息をすることすら苦しい身で、表に立つのは無謀というもの。大人しく去ってくれることを祈る。

「待て」

「あん?」

「行ってみるぞ」

「ああ? むだだムダムダ。どうせ野良猫だろうぜ。ネズミでも見つけたんだろ」

「でかいネズミかもしれんぞ」

「けっ。ならアンタ一人でいけよ」

「そうする」

――近づいてくる。

 強烈な殺気が、慎重に足音を忍ばせて近づいてくる。

 仕方がない。そっと手をコートの懐に忍ばせる。

「待てってばよ」

「あいつは娘を殺した」

――どくん。

 心臓が大きく跳ねる。

「今でも夢に見る。磔にされ、身動きもとれず火あぶりにされ、目の前で真っ黒にただれていく姿を。せめてあの野郎を地獄に送ってやらねぇと、死んだ娘にあわせる顔がねえ」

「でもよ」

「意気地のねぇ(チキン)は下がってろ」

「んだとテメェ!」

「おやめなさい」

 突然、高く澄んだソプラノの声が響いた。凛として張りがあり、静かだが極めて良く通る。

 風が起こした鈴の()のように、一陣の物静かな音色が、立ちこめていた殺気を払ってゆく。

――女?

「マルテ様」

「争いは災いの胤。不和は悪魔の良い餌となります。何があったのです」

「いや、その、この野郎が馬鹿にしやがるもんでつい…」

「暗い夜道に一人歩きは危険ですぜ。辺りをとんでもねぇ悪党がうろついてる」

「……悪者、ですか?」

「へぇ。ただ、もう終いです。そこの奥に隠れてる野郎の首さえかき切っちまえば」

――来るか。

 足音が動き出した。

 出口は男たちにふさがれている。

 不意打ちを狙うしかない。

 男の姿が見えた瞬間、突き飛ばして出口に向かう。虚を突いたその隙に路地を抜け、逃亡する。

 内区に入れば、奴らも追ってはこれまい。

 …コツ。

「!」

 すぐ横に影がある。

 いまだ。

「…………」

 どうした。

「…………」

 身体が、動かない。

 息が、苦しい。

 闇が、押し寄せてくる。

 いやだ。

 こんなところで。

 ……まだ死にたくない。

 …………。

 あたたかい。

 きれいな、瞳の色だ。

 気高く、強く、それでいて、美しい。

 二つの太陽が、燃えている。

――迎えに、来たのか。

 最後に見た景色の中で、天使が冷たく微笑んだ。




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