「ファウスト〜殺戮の堕天使〜」

二章 マグダラのマリア

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 暗い通路の行く手に、質素な造りの扉が見える。終始無言で歩いてきた少女は、扉の前で立ち止まると、初めて口を開いた。

「――失礼、します」

 そういうと、主の返答も待たず、中へと入っていく。すぐに取っ手に手をかけると、無表情な瞳を垣間(かいま)みせて、「パタン」扉を閉めた。

 ファウストは壁により掛かり、時が過ぎるのを待った。広間の破天荒な騒ぎも、この地下までは届かない。暗闇に揺らめく松明の明かりが、苔むした石壁に不気味な幻影を作り出す。

 ゆっくり数えて三十秒。もういいだろう。ファウストは取っ手に手を掛けて、扉を押し開いた。

 果たしてそこは、世にも奇妙な部屋だった。

 壁に、天井に、床に、至るところに張られた赤い札。薄い紙切れに赤い文字が、幾千、幾万となく、部屋中を覆い尽くしている。中央に置かれた豪奢なベッドの上に、この部屋の主がけだるげに寝そべっていた。

「ようこそ。マグダラの館へ。お待ちしておりましたわ」

 妙齢の貴婦人が顔を上げ、宛然と微笑んだ。その笑みは、何人もの男を甘い破滅へと陥れてきた危険な魅力に満ちている。

 魔女マグダラは、含みのある笑みを浮かべたまま、半身を起こした。シーツを纏っただけの裸身は、ゆるやかな流線型をえがいている。

「8人目が()られた」

 入り口から動くことなく、ファウストは語りかけた。「今度はまだ三つの幼子だ」

「まぁ、酷いこと」

「知らなかったと言うつもりか?」

「この館に閉じこめられた私が、どうして外の出来事を知ることができましょう。私が知るのは、占いによって出た結果(こたえ)のみ」

 枕元に、複数のカードが並んで伏せられている。

「……タロットカードか」

 二十二枚の絵柄の中に、人の定めが描かれているという。古き時代に真理の描かれていた石版を模写(コピー)したとされるまがいもの(イミテイション)。一説には、錬金術の祖ヘルメス・トルメギストスが、その錬成法を記したという話もある。

「未来への不安は、誰の胸にもあるもの。だからこそ、姿の見えないものに盲信し、恐れも抱きます」

「ほう。ならば俺にもその恐れとやらがあるか」

 黒い瞳が、じっとファウストを見据えた。昏い水を称えたふたつの湖が僅かに揺らぎ、心の奥底を見透かすように深く、さらに深く、見えない触手をのばしてゆく。

 魔女は静かに、一枚のカードをめくった。

「貴方が恐れているもの。それは、時計の針によってもたらされる」

「時計の針?」

 魔女はまた別のカードをめくる。

「恐れが現実になろうとしている。打開するには、死神を味方につけると良いでしょう」

 部屋はランプの淡い灯りのみ。ここに太陽の明るさは必要ない。二つの影が陽炎のように、か細い光に照らされて踊る。

「運気は下降の一途を辿っております。しばらくの間、外を出歩くのはおよしになられた方がよろしいかと」

「黙れ」

 鋭い一言が、魔女の手を止めた。

「何か?」

「もういい。くだらんご託はたくさんだ」

「怖いのですか」

 ファウストが睨む。その視線を受け止め、魔女は「ほほ」と口元を隠して笑った。

「人の運命は生まれる前から決められている。ちっぽけな神の駒である人に、抗えようはずがない。無限に繰り返す、ウロボロスの輪のよう」

 そういって、魔女は謳いだす。

「遙かな頂きに 私は歩くの

 下界はちっぽけ 王様気分

 足を踏み外して 真っ逆さま

 大怪我したけど 諦めないわ」

 ファウストは腕を組み、後ろの壁に凭れた。

「ならば得意の占いで、『LOKI』の正体も暴いてみせろ」

 壁に下げられたランプの灯が、風もないのにゆらりと揺れた。映りこんだ炎が、魔女の瞳の中で妖しく燃え盛る。

「できないか。『全知の魔女』の実力はそんなものか」

 全知の魔女――スラムに住む者なら誰も、その噂を知らぬ者はない。

 無法地帯である外区で、数少ない支配者層の人間であり、”白城”からもマークされている危険人物だ。古くはその能力で、過去現在未来を見通し、予言もしたらしい。しかし、今ではこうして『魔女の(くさび)の間』に封じられ、地下で余生を送っている。

 彼女と出会えたことは、まさに僥倖だった。都市伝説だとタカをくくっていた人物に呼びだされ、実際目にするまで、完全に疑ってもいた。会ってみれば、伝説の魔女は架空ではなく存在し、堂々と娼館まで経営していた。

 以来、何かと親切に助言してくれている。今では彼女の助言無くして、事の解決に当たるほうが難しい。彼女は外区の全てを知り尽くし、強力な情報屋として、同時に強力な後ろ盾として、自分に有益に貢献してくれている。

 くすり、と笑うと、魔女はすました顔で答えた。

「それがわかっているなら、最初からお伝えしておりますわ。わからないからこそ、貴方様に捜査を依頼したのです」

「ふん……」

 実をいえばこの件も、魔女が遣いを寄こすまで知らなかった。すでに三人もの犠牲者が出たあと、初めてスラムを騒がせる殺人鬼の存在に気づいたのだ。

 そしてそのとき、真っ先に疑われているのが自分だということも知った。

「私も心を痛めております。今では外区の誰もが身も知らぬ殺人鬼に怯えている始末。事はとてもゆゆしき事態ですわ」

「だろうな。なにしろ、”白城”が業を煮やして介入してくるほどの騒ぎだ」

「城が?」

 魔女は怪訝な顔をした。

「……知らんのか?」

「封じられて以来、私は地上に長く留まることが許されません。全知といえども、眠っている間に起きたことはわからないのです」

――ほう。

 初耳だった。

「あの打算と内区の利潤しか頭にない宰相が、外区の救済のために私兵を動かすなど理屈にあいませんわ。きっと、何か裏があるはず」

 その意見にはこちらも賛成だ。

 昼間の”剣帝”の態度が気にかかる。何のつもりで、俺に役立たずの部下など押しつけたのか。

「だが、事実だ。俺は奴らと手を組み、『LOKI』のための網を張る」

「では、貴方様はこの私と反目なさるおつもりで?」

 それは、予想していたよりも冷たい声だった。

 外区と内区の敵対関係は、今に始まったことではない。外区という地域が生まれて、”白城”がそれを見捨てたときから、連綿と続いてきた冷戦の歴史だ。

「……ああ、俺も一応、”白城”の騎士だ」

「そう」

 魔女は短く呟き、目をそらせた。

「ここを訪れる者も、もう誰もいないでしょう」

 パイプの火は切れていた。中身の煙草はもう、すでに炭化している。

 しばらくの沈黙のあと、魔女は淋しげな声で言った。

「……今日、ここへ来た目的は?」

「貴様は天使を信じるか?」

 唐突な問い返しに、魔女がきょとんとする。

「天使、ですか?」

「そうだ」

「何故そのようなことを?」

「答えろ」

 魔女は口を閉じ、考え込んだ。

「…ええ。勿論。神秘主義に基づくあらゆる可能性を、私は信じております」

 天使。

 広く世間に流布した、神聖の象徴。輝く翼を持ち、浄化の剣を掲げ、御座に服従する無敵の兵士。悪を打ち、主を崇め、人を導くという。

「ただ、私の(なか)の天使の像は、西洋のそれとは異なります。むしろ、ここより東に根付き、聖教より異端視された宗派の伝承に近いものかと」

「東か」

 聞くところによれば、砂と岩しかない不毛な大地が広がっているという。 褐色の肌の蛮族どもが、小競り合いを繰り返していると聴く。

「百万の顔で神への賛美を叫び、万の足と翼を持つ。その身は朱く燃え、その巨躯は雲を突き抜ける」

「それが、天使だと?」

「どちらが正しく、どちらが間違いと言うわけではありません。そう、互いに信じているだけ」

「見た者は?」

 魔女は薄く微笑んだ。

「おかしな事を聞かれるのですね」

 妖しい光をたたえた眼差しを、ファウストは正面から受け止める。

「いつから神学に興味を?」

「質問に答えろ。見たものはいるのか?」

「貴方様はどう思われます?」

 今度はファウストが面食らった。

「なに?」

「信じておられるのですか」

「…………」

 信じているか、だと?

 くだらない。

 そんなもの決まっている。

 あれは妄想だ。羊たちが蒔いた逸話の中の寓愉にすぎない。

 そうだとも――

「天使などいない」

「ならばそれで宜しいではありませんか」

 魔女が笑った。幾重にも音声がシフトし、さざ波のような重奏(エコー)となって四方からのしかかってくる。

「あるものはそれを内面で見、ある者はそれを(カタチ)で見る。彼らは確かに天使を見ていたことでしょう」

「そう……だな」

 頭の芯が痺れるように疼く。何事かを考える意志が浮かばない。強力な酒を呑まされたような微熱に、身体中が酔っている。

「それより」

 細い足が床に触れる。ベッドの上からこちらに向けて、妖艶な笑みが注がれる。

「最後の別れを楽しみましょう」

 するり、とシーツの下から、輝くような裸身が現れた。長い黒髪が蛇のように主の身体に巻きつき、必要最低限の場所を覆う。

 ゆったりと近づいてくる。

 動こうとしても足が動かない。

「なにを、した」

「私の得意な呪文を少々」

 とろけるような笑みが広がる。

「馬鹿なことを」

 内心、ファウストは戦慄していた。まさか、マグダラの力がこれほどとは。

 彼の知る限り、魔術とは意志の力。意識あるものに干渉しようとするなら、必ず抵抗にあう。意志の弱い者は服従し、力の結果を被ることになる。

 逆に、確固たる意志さえあれば抵抗し、打ち勝つことも出来るはず。その自信もあった。

 だが、それはあっけなく魔女の実力の前に破られた。自分は造作なく屈服し、魔女の瞳から片時も目を離せないでいる。

 年経た魔物の実力は、遙かに人を凌駕する。

 我知らず歯噛みし、声を漏らした。

「…化け物め」

「今まで、私は貴方の要求に応じて力を尽くして差し上げた。その支払いを、果たしてもらうだけ」

 目の前に立った魔女は、哀しげに微笑んだ。

「私が、怖い?」

「怖いだと? 笑わせるな」

 唯一動く口だけで、ファウストはいきりたつ思いを吐き出した。

 魔女の表情が、和らいだように見えた。

「愛しい人…」

 しなやかな腕が頬に触れる。

 直前、

「きゃァッ!」

 部屋の四隅に立てられた錫杖が「しゃりん!」と涼しげな音を立てた。密閉された室内で、赤い札が竜巻のように渦を巻いた。

 『楔』の結界だ。

 いにしえの大淫婦を封じた楔が、災厄たる魔女を外に出すことを拒む。

 魔女は、その場にうずくまり、白い煙が噴き出す腕を抱え込んだ。顔を伏せたまま、聞き取れないほど小さな声で呟く。

「まだ…ゆ…しては…………」

 吹き荒れる赤い風にのって、一枚の札が魔女の額にぴたりととりついた。

 人ならざる者の悲鳴が、部屋にこだました。その体から、白いもやのような者が吹きだし、嵐の奥へと吸い込まれてゆく。

 数秒後、嵐は唐突におさまり、道案内をしてきた小姓が、くずおれるようにその場に倒れた。

 シン…とした静謐が訪れる。まるで墓の下にいるような、凍えるほどの死の静寂。

 はっとして、我が手を見る。魔女が消えたことで、呪縛も解けていた。

 噴き出した汗をそのままに、辺りを見る。何事もなかったかのように、入ってきたときと同じ赤い部屋。ただ、主をなくしたベッドだけが、所在なげに黙っている。

――あれが、古代の、魔術師か。

 腹が立つ。

 全知の魔女も。それを封じた何者かも。

 己の手を、血の気がなくなるほどに握りしめる。

「くそっ……」

 何もできなかった。巨大な魔力の前に、自分はひれ伏し、獲物として死を受け入れる他なかった。

 蛇に睨まれた蛙。

 蜘蛛に囚われた羽虫。

 やり場のない怒りを、壁にぶち当てる。何枚かの札が、宙を舞った。

――力が、足りん。

 明確な事実。

 赤い札を蹴散らし、彼はふらつく足取りで、『楔の間』を後にした。

 




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