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暗い通路の行く手に、質素な造りの扉が見える。終始無言で歩いてきた少女は、扉の前で立ち止まると、初めて口を開いた。
「――失礼、します」
そういうと、主の返答も待たず、中へと入っていく。すぐに取っ手に手をかけると、無表情な瞳を垣間みせて、「パタン」扉を閉めた。
ファウストは壁により掛かり、時が過ぎるのを待った。広間の破天荒な騒ぎも、この地下までは届かない。暗闇に揺らめく松明の明かりが、苔むした石壁に不気味な幻影を作り出す。
ゆっくり数えて三十秒。もういいだろう。ファウストは取っ手に手を掛けて、扉を押し開いた。
果たしてそこは、世にも奇妙な部屋だった。
壁に、天井に、床に、至るところに張られた赤い札。薄い紙切れに赤い文字が、幾千、幾万となく、部屋中を覆い尽くしている。中央に置かれた豪奢なベッドの上に、この部屋の主がけだるげに寝そべっていた。
「ようこそ。マグダラの館へ。お待ちしておりましたわ」
妙齢の貴婦人が顔を上げ、宛然と微笑んだ。その笑みは、何人もの男を甘い破滅へと陥れてきた危険な魅力に満ちている。
魔女マグダラは、含みのある笑みを浮かべたまま、半身を起こした。シーツを纏っただけの裸身は、ゆるやかな流線型をえがいている。
「8人目が殺られた」
入り口から動くことなく、ファウストは語りかけた。「今度はまだ三つの幼子だ」
「まぁ、酷いこと」
「知らなかったと言うつもりか?」
「この館に閉じこめられた私が、どうして外の出来事を知ることができましょう。私が知るのは、占いによって出た結果のみ」
枕元に、複数のカードが並んで伏せられている。
「……タロットカードか」
二十二枚の絵柄の中に、人の定めが描かれているという。古き時代に真理の描かれていた石版を模写したとされるまがいもの。一説には、錬金術の祖ヘルメス・トルメギストスが、その錬成法を記したという話もある。
「未来への不安は、誰の胸にもあるもの。だからこそ、姿の見えないものに盲信し、恐れも抱きます」
「ほう。ならば俺にもその恐れとやらがあるか」
黒い瞳が、じっとファウストを見据えた。昏い水を称えたふたつの湖が僅かに揺らぎ、心の奥底を見透かすように深く、さらに深く、見えない触手をのばしてゆく。
魔女は静かに、一枚のカードをめくった。
「貴方が恐れているもの。それは、時計の針によってもたらされる」
「時計の針?」
魔女はまた別のカードをめくる。
「恐れが現実になろうとしている。打開するには、死神を味方につけると良いでしょう」
部屋はランプの淡い灯りのみ。ここに太陽の明るさは必要ない。二つの影が陽炎のように、か細い光に照らされて踊る。
「運気は下降の一途を辿っております。しばらくの間、外を出歩くのはおよしになられた方がよろしいかと」
「黙れ」
鋭い一言が、魔女の手を止めた。
「何か?」
「もういい。くだらんご託はたくさんだ」
「怖いのですか」
ファウストが睨む。その視線を受け止め、魔女は「ほほ」と口元を隠して笑った。
「人の運命は生まれる前から決められている。ちっぽけな神の駒である人に、抗えようはずがない。無限に繰り返す、ウロボロスの輪のよう」
そういって、魔女は謳いだす。
「遙かな頂きに 私は歩くの
下界はちっぽけ 王様気分
足を踏み外して 真っ逆さま
大怪我したけど 諦めないわ」
ファウストは腕を組み、後ろの壁に凭れた。
「ならば得意の占いで、『LOKI』の正体も暴いてみせろ」
壁に下げられたランプの灯が、風もないのにゆらりと揺れた。映りこんだ炎が、魔女の瞳の中で妖しく燃え盛る。
「できないか。『全知の魔女』の実力はそんなものか」
全知の魔女――スラムに住む者なら誰も、その噂を知らぬ者はない。
無法地帯である外区で、数少ない支配者層の人間であり、”白城”からもマークされている危険人物だ。古くはその能力で、過去現在未来を見通し、予言もしたらしい。しかし、今ではこうして『魔女の楔の間』に封じられ、地下で余生を送っている。
彼女と出会えたことは、まさに僥倖だった。都市伝説だとタカをくくっていた人物に呼びだされ、実際目にするまで、完全に疑ってもいた。会ってみれば、伝説の魔女は架空ではなく存在し、堂々と娼館まで経営していた。
以来、何かと親切に助言してくれている。今では彼女の助言無くして、事の解決に当たるほうが難しい。彼女は外区の全てを知り尽くし、強力な情報屋として、同時に強力な後ろ盾として、自分に有益に貢献してくれている。
くすり、と笑うと、魔女はすました顔で答えた。
「それがわかっているなら、最初からお伝えしておりますわ。わからないからこそ、貴方様に捜査を依頼したのです」
「ふん……」
実をいえばこの件も、魔女が遣いを寄こすまで知らなかった。すでに三人もの犠牲者が出たあと、初めてスラムを騒がせる殺人鬼の存在に気づいたのだ。
そしてそのとき、真っ先に疑われているのが自分だということも知った。
「私も心を痛めております。今では外区の誰もが身も知らぬ殺人鬼に怯えている始末。事はとてもゆゆしき事態ですわ」
「だろうな。なにしろ、”白城”が業を煮やして介入してくるほどの騒ぎだ」
「城が?」
魔女は怪訝な顔をした。
「……知らんのか?」
「封じられて以来、私は地上に長く留まることが許されません。全知といえども、眠っている間に起きたことはわからないのです」
――ほう。
初耳だった。
「あの打算と内区の利潤しか頭にない宰相が、外区の救済のために私兵を動かすなど理屈にあいませんわ。きっと、何か裏があるはず」
その意見にはこちらも賛成だ。
昼間の”剣帝”の態度が気にかかる。何のつもりで、俺に役立たずの部下など押しつけたのか。
「だが、事実だ。俺は奴らと手を組み、『LOKI』のための網を張る」
「では、貴方様はこの私と反目なさるおつもりで?」
それは、予想していたよりも冷たい声だった。
外区と内区の敵対関係は、今に始まったことではない。外区という地域が生まれて、”白城”がそれを見捨てたときから、連綿と続いてきた冷戦の歴史だ。
「……ああ、俺も一応、”白城”の騎士だ」
「そう」
魔女は短く呟き、目をそらせた。
「ここを訪れる者も、もう誰もいないでしょう」
パイプの火は切れていた。中身の煙草はもう、すでに炭化している。
しばらくの沈黙のあと、魔女は淋しげな声で言った。
「……今日、ここへ来た目的は?」
「貴様は天使を信じるか?」
唐突な問い返しに、魔女がきょとんとする。
「天使、ですか?」
「そうだ」
「何故そのようなことを?」
「答えろ」
魔女は口を閉じ、考え込んだ。
「…ええ。勿論。神秘主義に基づくあらゆる可能性を、私は信じております」
天使。
広く世間に流布した、神聖の象徴。輝く翼を持ち、浄化の剣を掲げ、御座に服従する無敵の兵士。悪を打ち、主を崇め、人を導くという。
「ただ、私の裡の天使の像は、西洋のそれとは異なります。むしろ、ここより東に根付き、聖教より異端視された宗派の伝承に近いものかと」
「東か」
聞くところによれば、砂と岩しかない不毛な大地が広がっているという。 褐色の肌の蛮族どもが、小競り合いを繰り返していると聴く。
「百万の顔で神への賛美を叫び、万の足と翼を持つ。その身は朱く燃え、その巨躯は雲を突き抜ける」
「それが、天使だと?」
「どちらが正しく、どちらが間違いと言うわけではありません。そう、互いに信じているだけ」
「見た者は?」
魔女は薄く微笑んだ。
「おかしな事を聞かれるのですね」
妖しい光をたたえた眼差しを、ファウストは正面から受け止める。
「いつから神学に興味を?」
「質問に答えろ。見たものはいるのか?」
「貴方様はどう思われます?」
今度はファウストが面食らった。
「なに?」
「信じておられるのですか」
「…………」
信じているか、だと?
くだらない。
そんなもの決まっている。
あれは妄想だ。羊たちが蒔いた逸話の中の寓愉にすぎない。
そうだとも――
「天使などいない」
「ならばそれで宜しいではありませんか」
魔女が笑った。幾重にも音声がシフトし、さざ波のような重奏となって四方からのしかかってくる。
「あるものはそれを内面で見、ある者はそれを像で見る。彼らは確かに天使を見ていたことでしょう」
「そう……だな」
頭の芯が痺れるように疼く。何事かを考える意志が浮かばない。強力な酒を呑まされたような微熱に、身体中が酔っている。
「それより」
細い足が床に触れる。ベッドの上からこちらに向けて、妖艶な笑みが注がれる。
「最後の別れを楽しみましょう」
するり、とシーツの下から、輝くような裸身が現れた。長い黒髪が蛇のように主の身体に巻きつき、必要最低限の場所を覆う。
ゆったりと近づいてくる。
動こうとしても足が動かない。
「なにを、した」
「私の得意な呪文を少々」
とろけるような笑みが広がる。
「馬鹿なことを」
内心、ファウストは戦慄していた。まさか、マグダラの力がこれほどとは。
彼の知る限り、魔術とは意志の力。意識あるものに干渉しようとするなら、必ず抵抗にあう。意志の弱い者は服従し、力の結果を被ることになる。
逆に、確固たる意志さえあれば抵抗し、打ち勝つことも出来るはず。その自信もあった。
だが、それはあっけなく魔女の実力の前に破られた。自分は造作なく屈服し、魔女の瞳から片時も目を離せないでいる。
年経た魔物の実力は、遙かに人を凌駕する。
我知らず歯噛みし、声を漏らした。
「…化け物め」
「今まで、私は貴方の要求に応じて力を尽くして差し上げた。その支払いを、果たしてもらうだけ」
目の前に立った魔女は、哀しげに微笑んだ。
「私が、怖い?」
「怖いだと? 笑わせるな」
唯一動く口だけで、ファウストはいきりたつ思いを吐き出した。
魔女の表情が、和らいだように見えた。
「愛しい人…」
しなやかな腕が頬に触れる。
直前、
「きゃァッ!」
部屋の四隅に立てられた錫杖が「しゃりん!」と涼しげな音を立てた。密閉された室内で、赤い札が竜巻のように渦を巻いた。
『楔』の結界だ。
いにしえの大淫婦を封じた楔が、災厄たる魔女を外に出すことを拒む。
魔女は、その場にうずくまり、白い煙が噴き出す腕を抱え込んだ。顔を伏せたまま、聞き取れないほど小さな声で呟く。
「まだ…ゆ…しては…………」
吹き荒れる赤い風にのって、一枚の札が魔女の額にぴたりととりついた。
人ならざる者の悲鳴が、部屋にこだました。その体から、白いもやのような者が吹きだし、嵐の奥へと吸い込まれてゆく。
数秒後、嵐は唐突におさまり、道案内をしてきた小姓が、くずおれるようにその場に倒れた。
シン…とした静謐が訪れる。まるで墓の下にいるような、凍えるほどの死の静寂。
はっとして、我が手を見る。魔女が消えたことで、呪縛も解けていた。
噴き出した汗をそのままに、辺りを見る。何事もなかったかのように、入ってきたときと同じ赤い部屋。ただ、主をなくしたベッドだけが、所在なげに黙っている。
――あれが、古代の、魔術師か。
腹が立つ。
全知の魔女も。それを封じた何者かも。
己の手を、血の気がなくなるほどに握りしめる。
「くそっ……」
何もできなかった。巨大な魔力の前に、自分はひれ伏し、獲物として死を受け入れる他なかった。
蛇に睨まれた蛙。
蜘蛛に囚われた羽虫。
やり場のない怒りを、壁にぶち当てる。何枚かの札が、宙を舞った。
――力が、足りん。
明確な事実。
赤い札を蹴散らし、彼はふらつく足取りで、『楔の間』を後にした。