/ 3 /
「ファウスト!」
呼ばれて、そちらに目を向ける。
紫煙に紛れた視界に、近づいてくる人影が見える。凶悪に面を歪めた、ひょろりと背の高い若造が、着込んだ鎧を重そうにがちゃがちゃと鳴らせて駆けてくる。腰に『歯車に剣の針』の紋章が刻まれた剣を帯刀しているのは、やつが確かなこの街の誇る騎士団の一員である証だ。
――朝っぱらから嫌なやつに会うものだ。
足を止め、男がここにくるまで待つことにする。
辺りは野次馬でごったがえしていた。さざなみのようなざわめきが、途切れることなく耳に障る。
こちらに気づいた何人かが、近くの人間と囁きあうのが目に入ったが、ファウストは知らぬ顔でそれを無視する。
ようやく辿り着いた若い騎士は、激しく肩で息を続けると、目の前でぷかぷかとパイプをくゆらす男に怒気を込めた視線を投げつけた。
なにか言うかと思ったが、それすらいえる余裕もないらしい。
――着慣れんものを着るからだろう。
「……時の輪騎士団のお荷物が、珍しく今日は非番ではなかったのか?」
「うるさいっ! 貴様、今何時だと思っている?」
ファウストは首を巡らし、時計台を探した。あばら屋のボロ屋根ばかりが目に入り、時間を知らせてくれる時計の針は視界に入らない。
「さぁな。十時ぐらいだろうか?」
「もう十二時だ! 伝令をとばして3時間、今までどこをほっつき歩いていたぁ!」
ファウストはぶっすりとむくれた。2時間あまり道に迷っていたことを、この男にだけは知られたくない。
「……俺も急がしい身でな。それより、まさかこの俺を呼んだのは貴様か?」
「栄光高きウッディング・ヒル家の嫡子であるこの僕が、誰が野蛮人に助けなど求めるか! 『外区』出のエセ騎士が」
この街は、昔から貴族に市民を守る義務が課せられている。
貴族の中から選ばれた者が、”白城”より騎士の称号を授かり、公的に街を守る”時の輪”騎士団に入隊する。これが正規の騎士だ。
それとは別に、功績をあげた民間の者に対し、”白城”から特別に騎士の称号が与えられることがある。”特別騎士”と称されるものがそれで、ファウストもその一人だ。
同じ騎士とはいえ、身分の差は明確であり、通常市民が貴族に口答えすることなど許されない。
「ふん。その坊ちゃんどもが役にたたんから、この俺が呼ばれたんだろうが」
「貴様ぁ! ”白城”直属の任命騎士だからといって、調子に乗るなよ!」
「勘違いするな」
ファウストの眼が、一瞬冷たく閃く。その剣幕に、ウッドマンと呼ばれた若い騎士がひるむ。
「な、なんだ、その目は。貴族である僕にたてつくのか?」
「地位など、この俺に必要ない。それにしがみついているのは貴様だろう、”唐変木”」
「な、なんだと、こ、この僕に向かって、そんな口を、貴族である、この僕を――」
「その貴族階級が無能だといっとるんだ、頓馬が。伝統だかなんだかしらんが、マーリンめ、ヒエラルキーの上位を占める者どもが、この程度の馬鹿者であることになぜ気づかん。家柄でしか自己の名を語ることのできん狐に、なにができる」
「な……なな、……」
「特に貴様など無能の一級品だ。親のすねを囓って生きているだけの寄生虫が、人並みに名誉なぞ求めたところで何になる。せいぜい、高名な家紋に恥を塗るだけだ」
「…………」
「なにが貴族だこの駄馬め。家に帰ってクソして寝てろ。そのほうがよっぽど世の中のためだ。下手に薄っぺらなプライドを振りかざして墓穴をほるより、何分の一かはマシだろう」
「だまれええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
腰の鞘から剣を抜き放ち、ファウストに切っ先を向ける。
「い、言わせておけば、べらべらとぉ、下等な騎士が、無礼な言葉を喋りやがってぇぇぇ」
突然の出来事に、身の危険を感じた野次馬たちの輪がいっせいに引いてゆく。陽の光を反射する銀色の刃に誰もが恐怖し、その行き先を固唾を呑んで見守った。
――ふうぅぅぅぅ。
大きく煙を吐き出し、その行方を眺めて彼は言う。
「……図星をさされて血迷ったか」
「その口がああぁぁぁ! 舌引っこ抜いて切り刻んでやるぅ!!」
銀色の光が踊った。
周囲から悲鳴が連鎖する。
ファウストの目は、冷静に軌道をとらえていた。力任せの一撃は、軌道さえ見切れば避けることなどたやすい。
半身を後ろに引き、わずかな差で避ける。渾身の一撃は空を切り、力に翻弄されたウッドマンはたたらを踏んだ。
ファウストは嗤った。
「まるで素人だ。名高い貴族の名が泣くぞ」
「なめるなぁ!」
足が固く踏みしめられ、切っ先が地から這い上がってくる。
火事場のクソ力という奴だ。
ファウストは歯がみすると、上半身を大きく反らせた。だが、わずかに足りず、噛みしめたパイプの先がもっていかれる。両断されたボウルに詰められた煙草の灰が、黒い霧となってぱっ、と周囲に散った。
――油断した!
頭がかっ!と熱くなる。
美しいオールドブラウンが目の前で切り取られ、歳月を掛けて洗練されてきた独特の色合いを失っていく。
――こんな素人に! この俺が!
ファウストの口が何事か呟いた。独特の韻をもち、人智を超えた言葉は、間近にいたウッドマンさえ聞き取れない。ファウストの視線がウッドマンをとらえる。その刹那――
ボひゅッ!
小さな爆発が起こった。
爆発は黒い霧の中で赤い炎を放ち、そこから二つの影が転がり出た。ファウストはすぐに起きあがり、パイプの柄を吐き捨てると、逆側に転がるウッドマンを見据える。
思ったより、威力が小さかった。やはりあの程度の灰の量では、満足に炎を再現することもできない。降雪も火の属性を中和し、威力の中途半端な”火の玉”が作り出されただけだ。
うずくまったまま、ひぃひぃとウッドマンが情けない声を上げている。
それでも、それなりに効果はあったようだ。
ファウストは、大きく息をつき、うめくウッドマンの背にとどめの言葉を放つ。
「身の程を知れ、虫ケラが」
場は静まり返っている。
遠巻きに囲んだ人垣から、無数の視線が男へと注がれる。
理解しがたい力、自分たちと明らかに異なる人種、誰もがその正体を理解したがゆえに、いっそうの恐怖が場を包む。
――魔術師。
悪魔と契約を交わした闇の世界の住人。
神を裏切った背約者。
巨大な力を操る化け物。
魔術師ファウスト。彼の名を、この街で知らぬ者はいない。
騒ぎに駆けつけた他の騎士が、慌てた様子でウッドマンを取り巻いた。「しっかりしろ」「だいじょうぶか!?」ファウストに向けて、敵意に満ちた視線を投げる者もいる。騎士たちにつられて、ウッドマンの周りに興味本位の人だかりができてきている。
(まずいな…)
ファウストは少しだけ後悔した。
貴族への無礼は極刑に当たる。この街における奴らの地位は、他の地域のそれよりはるかに高い。冷静さを欠いたことによるしっぺ返しは、自分の命と等価になるかもしれない。
(さて、どう言い訳したものか)
弁明の余地もなく悪いのは自分だが、正当防衛と言う線もなくはない。情状酌量の余地はあると思いたいが……
思案に暮れていると、「うわぁッ」と悲鳴があがった。蜘蛛の子を散らすように、人垣が分解してゆく。
騎士が一人、放心した様子で尻もちをついた。肩口から血が流れている。
同僚たちからの制止の声に聞く耳すらもたず、髪を振り乱したウッドマンが立ちあがった。その手に握られたのは、血に濡れた紅い剣。
(……しぶとい奴だ)
びゅんっ、と風を切る音が聞こえ、抜き身の剣が振るわれる。何滴かの朱い雫が飛び、その一滴が逃げ遅れていた子供の頬にぴっ、と飛んだ。腰が抜けているらしく、襤褸切れをまとった子供は震えて、身動き一つできないようだ。
怯えた瞳が助けを求めて、様子を伺う騎士たちを見る。騎士は皆、目をそらすか、そこに何も無いかのように無視する。貴族である奴らにとって、スラムに暮らす人間は畜生か、それ以下だ。少なくとも、人と等価値ではない。
野次馬たちは誰も、返り血を浴びた剣が怖くて手を出せない。
本能に忠実な奴らだ。
(……いいぞ)
ファウストの表情に、昏い笑みが刻まれた。
奴は正騎士に手をかけた。狂った騎士は法の外において処分することができる。いや――
理由なら、あとでどうとでもなる。
(俺は奴が気に喰わない)
ゆっくりと、コートの懐に手を伸ばす。
(!)
視界の端で、誰かが嗤った。
焦点を絞ると、有象無象の人垣の中に、さっき道を尋ねてきたあの若造を見つけた。野次馬に紛れて成り行きを見ていたのだろう。
目が合うと、男は唇の端を吊り上げ、するりと人垣から飛び出した。
すたすた歩いてきて、怯える少女の肩を叩く。少女を小脇に抱え、男は素早く人混みに消えた。
あっと言う間の出来事に、誰もがあっけにとられる。
(……何だったんだ?)
ファウストもまた、意識がそれた。
その一瞬を見逃さず、ウッドマンが動いた。血染めの広刃の剣が妖しく瞬き、横凪に振るわれる。
「くそっ――」
悪態をつく。2度目の油断――あの男のせいだッ!
雪の上に手をつき、転がって避ける。起きあがると、すぐ目の前に鈍いきらめきが走った。首を反らす――大丈夫、まだ胴体とつながっている!
安心する間もなく、次がくる。
(この男、思ったよりも、剣戟の速度が早い!)
3度目の過失。相手を見くびっていた。
地に当てた手を握りしめ、アンダースローで投げつける。ヒヤリとした雪の雫が降りかかる中、生あたたかい雫が頬に当たる。
ぞっとした。まさか、斬られたのか!?
考えている余裕はなかった。剣戟の一閃が思考を吹き飛ばす。
前にでて避け、ふところに飛び込んだファウストは、勢いそのままに右足を振り上げ、蹴りつけた。体勢の崩れていた騎士は、うめき声を上げて吹っとぶ。その隙に距離をとったファウストは、コートの内側に手を突っ込み、自分の武器を探った。
はぁ、はぁ――もう息が上がっている。若くない証拠だった。
見ると、ウッドマンはもう立ち上がり、剣を肩ごしに振りかぶっている。
だが、遅い。
冷たい質量が手にずしりと重い。触れているだけで、自然と貌が歪み、荒い息が落ち着いてくる。
ふところの中で、「カチャリ」と音がする。距離は十歩――じゅうぶんな射程距離だ。
「――茶番は終わりだ」
言葉と同時、ファウストはふところから手を引き抜いた。漆黒の艶光が狂喜に輝き、奴の頭がはぜる瞬間を予告する。
「!」
目の前を、ぶぉん、と風が唸った。
そして、沈黙。
時が凍りつく。
訪れたのは、晴れた冬の正午。うららかな日和に、時計台の鐘が鳴る。零時を知らせる、鐘の音だ。
ウッドマンは、剣を振り切っている。激しく息をつき、両手で剣の柄を握りしめて目の前にかがんでいた。
ファウストは、しびれる手をロングコートのポケットに突っ込んだ。予備の喫煙パイプを取り出し、口にくわえる。万が一の時に用意していた、安物のパイプだった。もう片方のポケットから、細かく砕いた煙草の葉を、一掴み取りだす。
背後で、「ざくっ」という音ともに、折れた広刃の切っ先が突き刺さる。
横から、やはりファウストの獲物が、雪の上に埋もれる重い音が耳に入る。
大衆の視線は、魔術師でも狂った騎士でもなく、今や別の一人に注がれている。
ファウストが、不機嫌を押し殺した声で、呟く。
「……いつから居た、”剣帝”」
その言葉に、野太い老人の声が答える。
「うむ。今来た所じゃ」
「ほぅ……で、この切っ先は何だ?」
「挨拶じゃ」
「……貴様の故郷では、人様の喉元に刃物を突きつけて、挨拶するのか」
「うむ。我が祖国では刀を魂と呼ぶ。その魂を相手に見せることは、誠意の証じゃて」
「……そうか」
マッチ箱を取り出したファウストは、刃に命を晒されたまま、その一本に火をつけた。
パイプの先のボウルに持っていき、点火する。
何度が煙を吸い込んでいるうち、煙草の苦味が、昂ぶった感情を少しずつ冷やしてゆく。
「……もういい、”剣帝”。十分に落ち着いた」
「そのようじゃの」
白髪の老爺はそういうと、満足げに己の魂とほざく凶器を鞘にしまった。それから、”時の輪”の騎士たちに向け、何人かにはケガ人の処置を言いつけ、元の仕事に戻るよう言い渡す。
騎士たちは、慌てて自分の仕事に戻っていった。野次馬たちも、狐につままれたような表情で、ぱらぱらと去っていく。
「よくあの状況で、あんな冗談がいえるものだな」
幾つもの皺が刻まれた顔に、憎々しいまでの笑みを浮かべ、”剣帝”が振り向く。
「ほっほ。伊達に歳をくってはおらんわい」
――狸爺め。
「俺を呼んだのは貴様だな」
「どこぞの誰かが仕事をほっぽりだして寝ておったせいでの。いたいけな年寄りが、ここまで出張する羽目になったわい」
「好きでやっている仕事ではない」
「私情は禁物じゃ。それに――」
”剣帝”は一度言葉を切り、微かに顎を揺らせた。ファウストも先ほどからわかっていたが、あえて何も言わなかった。
「歩きながら話そうかの。ほれ、行くぞ」
”剣帝”に促され、微動だにしないウッドマンをその場に残し、移動する。自分の得物を近くの雪山から探し当て、”剣帝”に追いつく。
「お主は少し、我が強すぎるよのぅ」
肩を並べたファウストに、”剣帝”が言った。自分より頭半分低い東洋人に向かって、棘のある言葉を返す。
「説教ならば聞かん」
「お主もわかっておるはずじゃ。この国の歴史は古い。昔から、位による支配が行われてきた。貴族は王に、市民は貴族に服従するように、儂らもそれを受け入れねばならん。それが、この街で生きていくべき規則じゃ」
「聞かんと言っただろう。それより。なぜ、スラムの事件に”時の輪”が動いている? 説明しろ」
「お主、殺す気じゃったろう」
ファウストは足を止めた。
「……何のことだ?」
「惚けるでない。あれだけの鬼相、儂が読みとれぬとでも思ったか? 騎士殺しがどのような目にあうか、知らぬでは済まさぬぞ」
静かな威圧感が、”剣帝”の身体から噴き出す。言葉に込められた、巌のような迫力に、ファウストが気圧される。
「ハ…ハッ。俺を脅す気か、”剣帝”」
「なればここで屍となるか」
怜悧な言葉と共に「チン!」と澄んだ音が響いた。いつの間にか、“剣帝”の手が、腰の得物に触れている。深紅の鞘からのぞく昏い刀身に、全身から血の気が引く。
「……遠慮、しよう」
「冗談じゃよ」
けろりとした顔で、再び刃をしまう。先ほどの殺気は微塵もない。どっと汗が噴き出した。
「かっかっか。だれも、死にたくはない。ウッドマンも、必死じゃったろうな」
「…………」
ファウストは痛感した。この男に、俺は勝てない。”白城”に選ばれた最高権力者”七老”の一人、”剣帝”。『大陸最強の剣客』と字される男は、いまだ健在だった。
「ほれ、さっさと行くぞ」
逆らうこともできず、ファウストは素直に従った。