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天使、だと?
朝の早くにたたき起こされ、下らぬ単語を聞かされた男は、ひどく不機嫌に呟いた。
もとの色さえわからない、土色に変色した小汚いロングコートの肩を怒らせ、街の大通りを大股に歩く。白い地面を荒々しく蹴りながら、充血した視線を辺りに投げつける。
雪帽子をかぶった屋根の軒下にはつららが並び、街行く人を威嚇している。子供たちの作った雪だるまが、貧相な顔をして、いたる家の玄関先で退屈な番をしている。
「いい気なものだ」
そういって、男は白い煙を吐きだした。
この寒空の下、通り過ぎる誰の息も白く淀み、霞のように消えてゆく中、男の吐いた息だけが、もやのように空気中に立ちこめて、暫く漂っている。
男が、口にパイプをくわえた。釣り鐘を逆さにして、吸い込み口をつけた、最もポピュラーな形の喫煙パイプ。ブライヤーという木の根を加工して作られたパイプは、ほんの少し煤けているものの、きれいなオールドブラウンは、いまだ輝くような艶を残している。
男の通り過ぎた後には、吐きだされた紫煙が糸を引き、その強烈な匂いに誰もが顔をしかめた。
――阿呆らしい。何が天使だ。
およそ柔和とはほど遠い剣幕に、人々は厄介ごとに巻き込まれまいと自ら進んで道をあける。
――幻想主義に束縛された無能なサルどもが。
自分の考えに没頭している男は、当然のようにその道を進む。
――天使が殺人事件を起こしただと? どこまで人を馬鹿にするつもりだ?
彼は今、スラムで続発する殺人事件を追っていた。
別名「外壁外区」と呼ばれるスラムは、外敵から市民を守る「外壁」より、外に広がる無法地帯だ。そこは、市民資格のない貧乏人や難民、流れ者などが住む未公式市街。それゆえ犯罪が頻発し、強盗が跋扈し、殺人が横行する。すべからく危険という言葉に含まれる単語は、この外区の中にすし詰めの状態で放置されている。
彼はそこにただ一人、法の番人として派遣された人間だ。その目的は、地上の快悪都市こと外壁外区を、秩序ある街へと浄化すること。そのために「王都特別守護騎士」などというとってつけたような位を新設し、私刑執行権限さえも与えられている。
それでもなお、犯罪が減るメドはない。
地図に存在しない仮想都市。そこは、内区に門前払いをくった連中が、代わりに作り上げた第二の無法都市。時と場所を選ばず、いつでも予測不能な事態が起こる。
つまりは今回のように、猟奇殺人犯が次々人を殺して回るようなケースも含まれるわけだ。
――その上、よりによってあんな馬鹿げたものまで残しおって……
幾重もの円と線、多角形で構成された、幾何学的な図形。俗に『魔法陣』と呼ばれる目印を、犯人は毎回、死体と一緒に現場に残している。
魔法陣は、魔術や呪い、錬金術、悪魔儀式などに使用され、異界への門となる。術者はその門を通じて、召喚や呪術を行う。門を開くための鍵はさまざまだが、そのほとんどは血と肉を求める。
犯人は、その闇の知識を知る人間だ。そして男は、この街で唯一、その知識を持っていることを、公的に知られた人間だった。
被害者の数はすでに七人。これから検証にいく死体もあわしたなら、合計八人が犠牲となっている。いずれも身体がバラバラにされた状態で発見されるという、極めて残忍な手口だ。
『血によって門を描き、肉によって鍵を作る』
犯人が何を喚び出そうとしているのかは不明だが、ろくなものではないだろう。どのみち、犯人が見つからない限り、自分自身が濡れ衣を着て裁かれる可能性がある。
なんとしても、それだけは防がねばならない。
「まったく、余計な仕事を増やしてくれるものだ」
忌々しそうに、男は呟いた。ついで、一向に気温の変わらない寒さに悪態をつく。その脇を、元気な子供たちが、はしゃぎながらすりぬけていった。
――クソ餓鬼どもは寒さも知らずか。
それとなく目で追っていると、子供の一人が突然くるりと反転し、こちらに向けて舌を出した。
――なんのマネだ?
いぶかったその瞬間、後頭部を軽い衝撃と冷たい破裂感が襲う。
目の前でケラケラ笑いあうクソ餓鬼どもに、殺気のこもった一瞥を放ち、男はくるりと方向転換した。
「どんっ」と、今度は何かがぶつかってきた。額のあたりに血管が浮かぶ。
雪玉をいくつも抱えた子供は、いきなり現れた壁に呻くと、なにやら毒づいたようだった。
怒りに燃えた眼で、目の前の邪魔な通行人を見上げ――「あうあう……」言葉にならない言葉を喋って、くしゃりと泣き面に変わる。
仲間たちの呼ぶ声を聞くと、少年は慌てて一目散に走り去る。何度も転んでは、雪球を雪の上へとぶちまけていた。
無邪気で礼儀知らずな子供たちの姿を見送って、男は後頭部に乗った雪を黙って払いのけた。口元のパイプをくわえたまま、気を落ち着かせるため、大きく深呼吸する。
目に飛び込んできた太陽は、思いのほか眩しかった。
「……雪か……」
澄みきった空に、白い雲が流れている。
彼が街にきて、すでに三年がたつ。その間、この街に雪が降ったのを見たのは、今日がはじめてだった。すっかり晴れた日差しを受けて、街全体に散りばめられた宝石たちが、きらきらとそこら中で反射する。
まるで、自然の作り出した広大な大理石の山のようだ。
「おっさん」
…………。
「なぁ、あんただよ。おっさん」
ぎろり、と目だけを動かす。
いつの間にか男が一人、こちらを見ている。
にやにやと笑みを浮かべた、軟派な男だった。短く刈り上げた髪と、耳からぶら下げた小さな像のマスコット。年は自分より若そうだが、蒼い眼は油断なくこちらの隙をうかがっているように見えた。皮のジャケットの胸元には小さな星が三つ、並んで輝いている。
……何者だ?
青年に、中年の男は言い返した。
「何の用だ? クソガキ」
「おほっ! 言うねぇ。ちょいと道をききてぇんだけど」
「知るか」
男は、にべもなく答えた。青年は、笑みを崩さずに尋ねる。
「外区の五番街って知らねぇ?」
男の表情が、堅く引き締まる。昨夜の殺人事件の犯行現場だ。これから自分が調査に向かう場所でもある。
「……そんなところに、何の用だ」
「なんでも、ちょっとしたイベントがあったってんでよ。俺も見に行こうかなァ、なんて」
「貴様のような一般人が来るもんじゃない。とっとと失せろっ!」
男は青年を怒鳴りつけると、コートを翻して立ち去った。突然の怒声にびっくりした何人かの視線が、肩を怒らせて去って行く男の背中を追っている。
場に取り残された青年は、ポケットからサングラスを取り出した。
「――一般ピーブルねぇ。なるほどォ、そりゃそうだ」
薄闇の訪れた視界に、小さくなってゆく背中を見据える。その先に、唯一外区と内区を結ぶ正門が見えた。
青年の顔に、嬉々とした笑みが浮かぶ。
「ほんじゃ・まァ、行きますかァ」
鼻歌を唄いつつ、青年は男の後を追っていった。
青年は、ひどく音痴だった。