「ファウスト〜殺戮の堕天使〜」

六章 支配者は語る

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 ぬかるんだ地面が足にまとわりつく。

 降り出した雨は勢いを増し、叩きつけるように冷えた体にむち打ってくる。

 ”白城”の呼び名は、その白亜のいでたちと周囲をたまり水で囲まれたその外観が、あたかも水鳥のようだとされたことからきている。百年を超える歴史を経て、本来の名で呼ばれなくなって久しい。

 雨で増水した水はとどまることなく溢れ、縦横にひかれた用水路へと呑み込まれてゆく。その水は内区に流れ、外壁を超えて、外区にまで恵みをもたらす。

 自然の恵みは、万人に平等だ。

「どういうつもりだ!」

 前をゆく影に向けて、ファウストは警戒心も露わに怒鳴った。この雨足では、大きな声で喚かなければ、相手に届かないだろう。

「なぜ俺を助けた」

「勘違いすんなよ。おっさん」

 青いジャケットの人影は立ち止まると、ずぶぬれの顔をこちらに向けた。木彫りの耳飾り(マスコット)が揺れる。

「助けたワケじゃねぇ」

 ファウストもまた、立ち止まる。

「ほう。だが生憎、『死者の書』とやらは手持ちにないぞ」

「へぇ、覚えててくれたのか」

 マスコット男はニッ、と笑う。

「受けた借りは必ずかえす性分でな」

 靴底を押し当てられた頬をこする。

「あのときの屈辱、忘れはせん」

「まだ根にもってんのか。律儀だねぇ」

 男は肩をすくめた。

「こんなトコで話すのも何だ。のんびりしてっと追っ手がきちまうぜ?」

 ファウストは後ろを振り返り、誰もいないことを確認した。降りしきる雨の中、”白城”の最も高い位置にある尖塔を見据える。

「……何を考えている」

「ああ? なんだって?」

 振り返りざまに銃を引き抜き、真っ直ぐ前に向ける。銃身が雨に濡れて輝き、刃物のような鋭さをもつ。

「悪いが、貴様と関わっている暇はない」

「物騒なもんをだすんじゃねえよ。それにこの雨じゃ、火薬も時化って使いものにならんぜ?」

「この前は避けられたようだが」

 と言って、グリップを両手でしっかりと握る。

「薬室にはすでに装填済みだ。特別製の弾丸がな」

 チッ、と男は舌打ちする。

「……あの時のやつか。またヤナトキに使いやがる」

「避けられるものなら避けてみるがいい」

「待った!」

 男は両手を挙げた。

「わりぃ。俺の負け。降参。あんたの言うとーりにしましょ」

「ずいぶんと物分かりがいいな」

 ……何か企んでいるのか?

「言っとくが、他意はねえよ。つっても信じられねーか」

「当たり前だ」

「あんたと取り引きしたい」

「取り引き、だと?」

「ああ、俺も『LOKI』って野郎に用がある。ちょぃと聞きたいんだが――」

 手を挙げたまま、真剣な表情になる。

「あんたに血の繋がった兄弟はいるか?」

「いや」

「じゃ、眠ってる間に動き出す夢遊病のケは?」

「……ない。何のつもりだ?」

「『シャドウ』って知ってっか?」

「シャドウ?」聞き返すと、男は挙げた腕をゆっくりと下ろし、ファウストの足元を指さした。

「あんたの下にあるものさ。この世に生まれて片時も離れず、黙して語らず、有形無形に変化する、あんたの影。そいつに意志があると言った奴がいる」

「酔狂な話だな」

「ところがそうでもない。人間にゃワケの分からない病気があって、その影がたまに本体の人格をのっとっちまうらしい、すると、本人が気づかないうちにいろんな悪さをすることがある」

「だからなんだ?」

「……俺は『LOKI』に会った」

「なに!?」

 男の言葉に、ファウストは顔色を変えた。

「どこでだ!」

「二日前、あんたに怪我負わせたあの晩だ。あの後ばったり。このとおり生きてるケドよ、そのときしっかり見たのさ」

 男は不敵に笑った。

「てめーのツラをな」

「俺は奴ではない!」

「分かってるさ。だが言ったろ、あれはあんたの影かも知れねぇ。あんたがしらねぇ間に体をのっとった別の人格。そうは考えられねぇか?」

「ふざけるなッ! 貴様に骨を折られたせいで、満足に歩くことすらできなかったのだぞ! その状態で誰が追えるものか!」

「そりゃそうだ」

 男は素直に認めると、一転して表情を和らげた。だがその目は、いまだ冷めた光を残している。

「でも、関係はある。そうだろう?」

 ちっ、とファウストは舌打ちした。余計なことを言ったか。

「『LOKI』って奴は何者だ? どうしててめぇと同じ顔してやがる? 偶然の一致ってのはありえねえだろ」

「”照準(ロック)”」

 魔術言語に呼応し、雨粒をはねのけ、魔力の波が一直線に伸びる。

「分かり易い野郎だな。そんなに言いたくねぇのか?」

「”装填(セット)”――”雷鞭(アーチヴォルト)”!」

 銃身を蒼い光が走った。雨で水気の増したコートが持ち上がり、重力に逆らって宙を泳ぐ。蒼い光は主を取り巻き、逆巻く電極の渦を形成した。

「消えろ」

「そうもいかねぇ。あんたにゃ『LOKI』のところまで、道案内してもらわなきゃならねぇんだ」

 敵意を浮き彫りにした構えをとる。

「ほう。今回はまともに相手をするか」

「俺にとっちゃ、あんたが唯一の手がかりだからな。ここで退くわけにゃいかねぇのよ」

(なんだ?)

 目の前にある奴の姿が急に縮んだ。気配が圧縮したとでもいうのだろうか。飛び込めば、手ひどい返り討ちにあうことは間違いない。

 だが、この距離では――

「死ぬぞ」

「やってみろよ」

「…………」

 ファウストは銃を下ろし、「”空白(ブラフ)”」と呟いた。

 自身を取り巻いていた雷の属性が瞬時に消失し、蒼い光は弾倉の奥へと吸い込まれ、魔術は凍結した。

「……何の用だ?」

 不審な顔をした男の背後から、ゆっくりと水たまりを散らして小柄な影が滑り出た。相変わらずの人形じみた表情で、フリルで飾られた大きめのパラソルをさしている。

「奥様から、伝言を、お持ちしました」

 警戒心むきだしの視線を背に受けて、おかっぱの少女は自分の前まで進むと、丁寧に折り畳まれた便せんを差しだした。

 ファウストが受け取ると、「それから」とつぶやき、

「これを」

 栗色の光沢を放つ喫煙パイプを差しだす。

「お詫びのしるしに」

 ファウストはそれも受け取ると、口元に当てて、感触を確かめた。雨に濡れるのもかまわず、口にくわえる。新品特有のざらついた木の味が舌に当たるが、悪い気はしない。

「……すまんな」

「いえ」

 少女は伏し目がちな目を上げると、ファウストの瞳を見返した。

「それでは」

 一礼し、来たときと同じように静かに去っていった。

「……ずいぶん可愛らしい恋人じゃネェか」

「そんなものではない」

 ファウストは渡された便せんを開きながら言った。

「あれは魔女の傀儡(くぐつ)だ」

「くぐつ?」

 それ以上相手にすることなく、ファウストは書かれた内容を黙読した。魔女からのアドバイスだ。

「……病院? そんなところに何が……」

 思わず漏れた呟きに、声が答える。

「それなら知ってるぜ」

 ファウストは顔を上げ、にんまりと勝ち誇った笑みを浮かべた顔を睨んだ。

「……どこだ」

「取り引きだ」

「言え」

「悪い話じゃない」

「ならばいい」

「あんたも強情だな」

 呆れた声。

「悠長にしてるヒマはねぇぜ? 夜はすぐそこだ」

 雨の壁は厚く、時計台まで視界が届かない。ファウストは舌打ちした。

「案内しろ」

「返事は?」

 ファウストは火の点いていないパイプの柄をぎり、と噛んだ。

「好きにするがいい」

 




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