「ファウスト〜殺戮の堕天使〜」
三章 ある娼婦の死
/ 7 /
ゴゥーン…… どこからか鐘の音が聞こえる。 元々いくアテなんてない。目的はあるが、手段で途方に暮れている。どこに行けば奴に会えるか? ブラブラと歩いているうち、だんだん足取りが重くなってきた。 空は今日も青い。雪も、昨夜の雨でほとんど流れて消えている。代わりに足元で、小さな鏡が幾つも午後の光を反射している。 傷は具合は良好だった。医者としてのシュミの腕は申し分ない。良い師のもとで学んだのだろう。肉体的な怪我については心配はいらない。 やはり問題は、閉じたままの霊的中枢だ。病は気から、そいつは事実。傷の治療に陽龍を利用したいが、道がなくては気も巡らない。 しばらくは自然治癒に頼るしかない。 パキリ、と氷の水たまりが下で割れた。 それともう一つ、やらなきゃならないことがある。重たい気持ちを背負って、目の前の建物を見た。 (……ここだな) たどり着いた場所は、見覚えのある建物だ。 館の中からは嬌声が聞こえてくる。昨日と何ら変わりはない。 なにはともあれ、まず伝えなねばなるまい。 胸のポケットからサングラスをとりだす。俺は意を決して、きらびやかな装飾で虚ろに飾られた扉をくぐる。 甘い匂いが鼻腔をくすぐる。苺のリキュールに蜂蜜を加え、そこに腐ったチーズをぶち込んで仕上げに女の汗をかき混ぜれば、こんな匂いになるのかも知れない。 グラスの中では薄闇がさらに黒く染まる。そこから見た外側は、どす黒く淀んだ気が渦を巻いている。剥き出しにされた欲望が留まらず徘徊し、私利に憑かれた鬼が口を大きく広げている。 俺は、来客を知らせるためのベルを鳴らした。 出迎えに来てくれた女のコに片手を挙げる。 「よぉ」 女のコは人の顔を見るなり、絶句した。 「あなた……」 「姐さんいるかい?」 慌てて駆け寄ってきて、ぴたりと寄り添い耳打ちをする。 「具合ワルいよ。けさ城の連中がいっぱい来てさ、それからずっと不機嫌なの。あいつらきてるあいだ、ロクに仕事もさせてもらえなかったんだから」 「へぇ」 もう嗅ぎつけやがったか。 「何があったかは聞いたか?」 「ううん。姉さん、何でもないって言ったから」 三つ編みの少女は不安そうに俺の目をのぞき込む。 生憎そこにはサングラスがあって、俺の感情は仮面のように厚い層で覆われている。 「姐さん、呼んでくれ」 「うん。いいけど……勝手に抜け出したりなんかして、怒られるよゼッタイ」 「覚悟してるさ」 俺は笑って言った。 「じゃ、待ってて」 小走りに去っていく後ろ姿が闇に消えると、暫くして足早に駆けてくるハイヒールの音が聞こえた。 その音は立ち止まることなく、一直線に俺の前まで突っ込んでくると、「ばちぃぃぃん!」と景気のいい音を鳴らした。 右の頬に熱がこもる。 「……よくものこのこ帰ってこられたね」 憎々しげな呟きが耳朶を打つ。 強烈な一撃でズレたサングラスを元に戻しながら、彼女の顔を正面から見る。 赤く腫れた瞼に、崩れた化粧の後。 彼女はタリの死を知っている。 「城の連中が来て、知らせてくれたよ。あの子のこと」 「…そっか」 「言ったはずだよ。あの子を裏切るような真似したら、タダではすまないって」 「……そうだな」 「あんた、いったい何してたんだい!?」 広いホールに、彼女の絶叫がこだました。 様子の異なる状況に、客も女のコも皆一様に沈黙を受け入れる。押し黙った聴覚の代わりに、おびただしい数の視線の集中砲火を浴びる。 細い腕に、ジャケットの襟がきつく掴まれた。 「非道いじゃないか! あの子の気持ち、わかってたんだろ? 短い夢ぐらい、見せられただろ? あたしみたいになる前に、こんな所から抜け出すこともできたじゃないか! なのに、一人だけ置いてけぼりにして!」 「……悪い」 「ふざけるなッ! 最低だよ。やっぱり、男なんかアテにならない。あんたなんかに預けるんじゃなかった……あの子はっ! 弱い子なんだ! 可哀想な子なんだよ! それを、裏切って、平気な顔して……」 襟を掴んだまま、彼女の身体はずるずると崩れてゆく。 「あたしが守ってやらなきゃ、ダメだったんだ…」 「……俺は」 「うるさいッ! 何も言うな!」 顔を伏せたまま、彼女は恫喝した。 「あんたの言葉なんざ聞きたくないよ。タリだって、愛想尽かしたろうからね」 「…………」 店の女のコが二人近寄って、うなだれた彼女に手を差し伸べたが、ぴしゃりとはねつけ、自分の足で立ち上がる。 「……出てきな。二度と、あんたの顔なんざ、見たくもない」 ラメ入りのドレスが、彼女の気持ちを代弁するかのように濡れて光った。 俺は軽くため息をつく。「そうだな」 「今さら何言っても、言い訳にしかならねぇし。こうなっちまった以上、俺は素直に従うよ」 暗い景色。暗い状況。一夜限りのハーレムよ、さらば。 「ただ、俺は俺なりにけじめをつける。それぐらいは許しちゃくれねぇか」 「勝手にすればいいさ」 彼女の言葉は、最後まで辛辣だった。 「カーミラ」 不意にその後ろから、声が聞こえた。 いつの間にかそこに、小柄な少女が立っている。黒玉の瞳をもち、黒髪の、どこか蝋細工のアンティーク人形を思わせる、気配の透明な少女だった。 「奥様が、お待ちです」 微かな声であったが、驚くほどはっきりと耳に届いた。 「すぐに、いきます」 彼女はそれに答え、俺を見ることなく背中を向け、暗闇のさらに奥へと消えた。 その姿を見送って、少女は手を叩いた。全員の注目が集まる中、彼女は深々とお辞儀をした。 「――お客様には、大変の失礼を。心ばかりですが、奥様から、皆様へおもてなしするようにと。ワインを、ご用意いたしました」 (奥様?) 俺は首を傾げた。 てっきりあの姐さんがこの店を仕切っていると思いこんでたが、どうやらまだ上がいるらしい。昨日の皿洗いのときにゃ、一つもそういう話は聞かなかったが。 (――ま、いいか。俺にゃもう、関係ねぇしな) 「皆様、美女の酌でごゆるりと、お楽しみくださいませ」 抑揚のない声を背中に聞きつつ、俺は『マグダラの館』を後にした。 |