「ファウスト〜殺戮の堕天使〜」

三章 ある娼婦の死

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 ゴゥーン……

 どこからか鐘の音が聞こえる。

 元々いくアテなんてない。目的はあるが、手段で途方に暮れている。どこに行けば奴に会えるか? ブラブラと歩いているうち、だんだん足取りが重くなってきた。

 空は今日も青い。雪も、昨夜の雨でほとんど流れて消えている。代わりに足元で、小さな鏡が幾つも午後の光を反射している。

 傷は具合は良好だった。医者としてのシュミの腕は申し分ない。良い師のもとで学んだのだろう。肉体的な怪我については心配はいらない。

 やはり問題は、閉じたままの霊的中枢だ。病は気から、そいつは事実。傷の治療に陽龍を利用したいが、道がなくては気も巡らない。

 しばらくは自然治癒に頼るしかない。

 パキリ、と氷の水たまりが下で割れた。

 それともう一つ、やらなきゃならないことがある。重たい気持ちを背負って、目の前の建物を見た。

(……ここだな)

 たどり着いた場所は、見覚えのある建物だ。

 館の中からは嬌声が聞こえてくる。昨日と何ら変わりはない。

 なにはともあれ、まず伝えなねばなるまい。

 胸のポケットからサングラスをとりだす。俺は意を決して、きらびやかな装飾で虚ろに飾られた扉をくぐる。

 甘い匂いが鼻腔をくすぐる。苺のリキュールに蜂蜜を加え、そこに腐ったチーズをぶち込んで仕上げに女の汗をかき混ぜれば、こんな匂いになるのかも知れない。

 グラスの中では薄闇がさらに黒く染まる。そこから見た外側は、どす黒く淀んだ気が渦を巻いている。剥き出しにされた欲望が留まらず徘徊し、私利に憑かれた鬼が口を大きく広げている。

 俺は、来客を知らせるためのベルを鳴らした。

 出迎えに来てくれた女のコに片手を挙げる。

「よぉ」

 女のコは人の顔を見るなり、絶句した。

「あなた……」

「姐さんいるかい?」

 慌てて駆け寄ってきて、ぴたりと寄り添い耳打ちをする。

「具合ワルいよ。けさ城の連中がいっぱい来てさ、それからずっと不機嫌なの。あいつらきてるあいだ、ロクに仕事もさせてもらえなかったんだから」

「へぇ」

 もう嗅ぎつけやがったか。

「何があったかは聞いたか?」

「ううん。姉さん、何でもないって言ったから」

 三つ編みの少女は不安そうに俺の目をのぞき込む。

 生憎そこにはサングラスがあって、俺の感情は仮面のように厚い層で覆われている。

「姐さん、呼んでくれ」

「うん。いいけど……勝手に抜け出したりなんかして、怒られるよゼッタイ」

「覚悟してるさ」

 俺は笑って言った。

「じゃ、待ってて」

 小走りに去っていく後ろ姿が闇に消えると、暫くして足早に駆けてくるハイヒールの音が聞こえた。

 その音は立ち止まることなく、一直線に俺の前まで突っ込んでくると、「ばちぃぃぃん!」と景気のいい音を鳴らした。

 右の頬に熱がこもる。

「……よくものこのこ帰ってこられたね」

 憎々しげな呟きが耳朶を打つ。

 強烈な一撃でズレたサングラスを元に戻しながら、彼女の顔を正面から見る。

 赤く腫れた瞼に、崩れた化粧の後。

 彼女はタリの死を知っている。

「城の連中が来て、知らせてくれたよ。あの子のこと」

「…そっか」

「言ったはずだよ。あの子を裏切るような真似したら、タダではすまないって」

「……そうだな」

「あんた、いったい何してたんだい!?

 広いホールに、彼女の絶叫がこだました。

 様子の異なる状況に、客も女のコも皆一様に沈黙を受け入れる。押し黙った聴覚の代わりに、おびただしい数の視線の集中砲火を浴びる。

 細い腕に、ジャケットの(えり)がきつく掴まれた。

「非道いじゃないか! あの子の気持ち、わかってたんだろ? 短い夢ぐらい、見せられただろ? あたしみたいになる前に、こんな所から抜け出すこともできたじゃないか! なのに、一人だけ置いてけぼりにして!」

「……悪い」

「ふざけるなッ! 最低だよ。やっぱり、男なんかアテにならない。あんたなんかに預けるんじゃなかった……あの子はっ! 弱い子なんだ! 可哀想な子なんだよ! それを、裏切って、平気な顔して……」

 襟を掴んだまま、彼女の身体はずるずると崩れてゆく。

「あたしが守ってやらなきゃ、ダメだったんだ…」

「……俺は」

「うるさいッ! 何も言うな!」

 顔を伏せたまま、彼女は恫喝した。

「あんたの言葉なんざ聞きたくないよ。タリだって、愛想尽かしたろうからね」

「…………」

 店の女のコが二人近寄って、うなだれた彼女に手を差し伸べたが、ぴしゃりとはねつけ、自分の足で立ち上がる。

「……出てきな。二度と、あんたの顔なんざ、見たくもない」

 ラメ入りのドレスが、彼女の気持ちを代弁するかのように濡れて光った。

 俺は軽くため息をつく。「そうだな」

「今さら何言っても、言い訳にしかならねぇし。こうなっちまった以上、俺は素直に従うよ」

 暗い景色。暗い状況。一夜限りのハーレムよ、さらば。

「ただ、俺は俺なりにけじめをつける。それぐらいは許しちゃくれねぇか」

「勝手にすればいいさ」

 彼女の言葉は、最後まで辛辣だった。

「カーミラ」

 不意にその後ろから、声が聞こえた。

 いつの間にかそこに、小柄な少女が立っている。黒玉の瞳をもち、黒髪の、どこか蝋細工のアンティーク人形を思わせる、気配の透明な少女だった。

「奥様が、お待ちです」

 微かな声であったが、驚くほどはっきりと耳に届いた。

「すぐに、いきます」

 彼女はそれに答え、俺を見ることなく背中を向け、暗闇のさらに奥へと消えた。

 その姿を見送って、少女は手を叩いた。全員の注目が集まる中、彼女は深々とお辞儀をした。

「――お客様には、大変の失礼を。心ばかりですが、奥様から、皆様へおもてなしするようにと。ワインを、ご用意いたしました」

(奥様?)

 俺は首を傾げた。

 てっきりあの姐さんがこの店を仕切っていると思いこんでたが、どうやらまだ上がいるらしい。昨日の皿洗いのときにゃ、一つもそういう話は聞かなかったが。

(――ま、いいか。俺にゃもう、関係ねぇしな)

「皆様、美女の酌でごゆるりと、お楽しみくださいませ」

 抑揚のない声を背中に聞きつつ、俺は『マグダラの館』を後にした。




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