「ファウスト〜殺戮の堕天使〜」

序章

ファウスト

 

 

 

ファウスト

    「殺戮の堕天使」

 

 

 

 

 

       著者 藤田拙修

                                                  Sunday, October 22, 2006

 

 

 

 

 


 その子供にとって、目の前の景色は、生まれて初めて目にする光景だった。

 空からふり続く白い綿毛。

 右に左に揺れながら、はらはらと降りてくる。

 小さな来訪者たちは、まるでダンスを踊るように街に降りてくる。夜の静寂を乱さぬよう、最大限の注意を払いながら、でもどこか楽しげに揺れて、白い大地へ吸い込まれてゆく。

 むっつりと押し黙った街は彼らを黙って迎え入れ、白く塗りつぶすことを許している。月のない夜に、おしろいを塗って化粧した街は、淡い燐光を放っているかのように、ぼぅと青白く浮かび上がって、それはそれで綺麗だった。

 夜のしじまの中で、出来上がってゆく銀世界。好奇心に輝く瞳に、おとぎ話に見た世界が広がっていく。耳を澄ませると、綿毛に乗った小人たちの、陽気な歌が聞こえてくる。

 しんしんしん・・・しんしんしん・・・

 彼らはとても楽しそうだった。

 たっぷりの好奇心で見開かれていた瞳が、大きなあくびとともに半ばまで閉じた。どこからか現れた夢の精が、鼻を高くして子守歌を唄い始める。

 まだ幼い男の子は眠たげに目をこすり、戸を閉めた。立てつけの悪い戸は、文句を言っているようにがたがたと揺れる。その隙をぬって、一粒の白い綿毛が通り抜けた。

 ひらり、ひらりと宙を舞い、ぴたりと少年の鼻先に止まる。それはたちまちのうちに、すぅ…と消えてしまった。小人の残した足跡は、微かな冷たさとなって鼻先に残る。

 楽しそうな笑い声が、白い夜を震わせた。

 静かな夜だった。

 街の中央に聳える時計台も、今は雪に埋もれ、寒そうに針を震るわせている。夜に賑わいを見せる一角も、今日は早々に輝きを消し、沈黙に包まれている。野良犬さえ、今夜は闇夜の号令をかけることはない。

 朝にはまだ遠い。

 耳に痛いほどの静寂に包まれ、じっと息を潜める街は、まるで時が止まったかのように身じろぎ一つせず、白い闇の中で縮こまっていた。

 時計台の二つの針は、その切っ先を、ちょうど真上に向けようとしている。

 すでに男の子の姿は、窓になかった。今頃は、心地よいまどろみの中で、白い小人か夢の妖精と、楽しく踊っているのかもしれない。

 全てが寝静まる時刻。

 誰もが変わらぬ朝を、当たり前の日常が繰り返されると信じている。

 

 ゴゥーン……

 

 息を殺して深い眠りにつく街に、重い鐘楼の音が鳴り響く。時計台の頂上に据えられた、巨大な鐘の音だった。

 時計台の針は、常に正確に時を刻み、この街に住む者に、わけへだてなく正確な時刻を教えてくれる。誰もが耳慣れた、午前0時を告げるサイン。

 短い夜のBGM。一定の時間が過ぎれば、音は止み、再び元の静寂が訪れる。やがて朝を迎え、太陽の光を浴びて眠りから目覚めた人々は、いつもと変わらない一日を迎えるだろう。

 たとえそれまで、どのような悪夢を見ていようとも。

 がたがたと音がする。先ほどの窓に、再び男の子の姿があらわれた。不思議そうに、雪の降る夜空を見つめている。

 円い月が出ていた。

 丁度今日は満月の日だ。今の時間帯なら、たくさんの星を引き連れた夜の王様が、雄々しくその姿を現していた頃だろう。

 月は、朱かった。

 血の色をした月は、くっきりと白い闇に浮かび上がり、朱い光を放った。

 白亜の光景が、朱い波に呑まれてゆく。鮮やかな手際で色を塗り替えられた街に、警鐘のような鐘楼の鐘が鳴り響く。

 膨らんだほっぺたに、朱く染まった綿毛が触れる。けれど、少年はまるで気にせず、魅入られたように月ばかりを見上げていた。

 やがて、空に変化が起こる。

 月の中央で、何かがもぞり、と動いた。蠢く影は、うねうねと闇をかき分けながら、次第に姿を現す。

 それは二本の腕だった。

 華奢な腕は、何もない宙の上で、ゆっくり舞うように手を動かす。どこか異境の部族の踊りのようで、開いたり、閉じたり、弧を描いたり、形をとったり、身体はないのに、確かにそれは右手と左手で、器用に踊っていた。

 緩慢な動作で繰り返される優雅な舞は、最後に収縮し、存在しない体を抱いた。

 途端、周囲の雪が弾けるように散った。狂ったように右に左に行き交い、荒れ狂う嵐の中にとり残された小船みたいに、雪が抗えない力に翻弄される。

 その中心で、大きなゆがみが生じた。一滴のしずくが、水たまりに幾つもの波紋を生みだすように、一つのゆがみが、大気の中で幾つもの波紋を生みだす。雪の渦を始点にして、ゆがみは辺り一面に押し寄せ、朱い景色をぐにゃりと波うたせた。

 いまや少年は、恍惚とした瞳で、成り行きを見守っている。

 波紋の中心で、一つの生き物が生まれようとしていた。――いや、雪の降る街に、奇跡が起ろうとしている。

 ゆがみは、唐突に止んだ。

 赤い夜に、奇跡が生まれた。

 二つの大きな翼が、その姿を覆い隠していた。地上に存在するあらゆる鳥さえ、その黄金色の翼に比べれば、遥かに不細工に映るだろう。

 つぼみが華をひらくように――その正体を包んでいた両翼は、多くの羽根を舞い散らし、隠されていた天上の実りを地上に与えた。

 琥珀色の瞳は慈愛を称え、

 魅るもの全てに祝福を施し、

 穢れない身体を、誇りと栄光で鎧った圧倒的な神の芸術――

 大自然の造り出した雪さえ、その身体に触れることを許さない。

 それ、は少年をひたと見据えた。

 いまだ鳴り止まない鐘の音は、少年の耳に、確かな祝福を告げた。それは不吉な月さえ覆い隠し、神々しい主の恵みを万物に与える。

 少年の唇は、聞いたことのない名を口にし、小さな手は十字をきった。

 “天使”は、柔らかに微笑した。

 




Copyright (C) 2009 Sesyuu Fujta All rights reserved.